ポストに入っていた一通の封筒が、間違いだったと気づいたのは、開封してからだった。
昨年のことだ。ある住宅街では同じ苗字の家がやけに多く、番地も似通っているせいで誤配送が日常茶飯事になっていた。彼女の家にも、ときどき他人宛の封書が紛れ込む。いつもは差出人も中身も確かめず、そのまま本来の宛先へ入れ直す。それが暗黙の了解だった。
その日だけ、違った。
自分宛だと思い込んで、封を切ってしまったのだ。
中に入っていたのは結婚式の招待状だった。ただし、折り目ではなく、はっきりと力を込めて引き裂かれた痕があった。台紙は真っ二つに割れ、裂け目の繊維が毛羽立っている。祝いの文面は途中で途切れ、祝福の言葉は無残に分断されていた。
さらに、メモ帳の切れ端が一枚、同封されていた。
「犬畜生 お母さんに謝れ」
震えた筆跡だった。怒りか、悲しみか、それとも別の何かか。文字は太く濃く、紙を破りそうなほど強く押しつけられている。
宛名は、彼女と同じ苗字の女性。差出人も、同じ苗字の女性。
血縁なのか、偶然なのか、そこまでは分からない。ただ、他人の私情がむき出しのまま自分の手元に届いたという事実が、妙に重たかった。
封筒を閉じ直し、彼女はそれ以上読まなかった。郵便局へ持っていき、誤配送として届け出た。事情を説明する声が、自分でもわずかに上ずっているのが分かった。
その夜。
激しい雨音で目を覚ました。窓を叩く音が異様に大きい。だが、次の瞬間、奇妙な違和感に気づく。雨は窓ではなく、自分の身体に直接降りかかっている。
冷たい水が頬を打つ。髪を濡らす。衣服に染み込む。
彼女は暗闇の中に立っていた。
足元はぬかるみ、どこまでも黒い空間が広がっている。自分がどこにいるのか分からない。それでも喉が勝手に震え、声が飛び出した。
「〇子ー!〇子ー!」
その名前に覚えはない。それなのに、胸の奥から搾り出すように叫んでいる。
遠くから応える声がした。
「オカァサーン!オカァサーン!」
子どもの声だった。泣き叫ぶような、かすれた声。
二つの声は次第に重なり、絡み合い、やがて不自然な調和を生み出した。母と子の呼び声が、互いを求めるというより、互いを責め合うように響く。
その瞬間、空間を引き裂くような低い音が鳴り渡った。
グワァァァァァン。
目の前に仏壇が現れた。闇の中にぽつりと浮かび上がる木目。中央でリンが揺れている。誰も叩いていないのに、鈍く、長く、震えている。
自宅に仏壇はない。
そう思った瞬間、ベッドの硬さを背中に感じた。天井。隣で眠る夫の寝息。現実に戻ったのだと理解し、息を吐いた。
そのときだった。
左側に、もう一つの気配があった。
耳元で、低い女の声が囁く。
「くやしい……お母さんがどれだけ苦労したか……」
肩に、冷たい手が置かれた。
重みはない。ただ、確実に触れている。
彼女は目を閉じたまま、動けなかった。
翌朝、部屋はいつも通りだった。夫も何も気づいていない。ただ、空気だけがどこか湿っている気がした。
それは三日ほど続いた。背後に立たれているような感覚。ふいに呼ばれる、聞き覚えのない名前。夜中に目を覚ますと、枕元がわずかに濡れていることもあった。
四日目の朝、すべては消えた。
誤配送の相手と顔を合わせることは、結局なかった。結婚式がどうなったのかも知らない。謝罪があったのか、なかったのかも分からない。
ただ、彼女はそれ以降、誤って届いた封筒には決して触れなくなった。自分の苗字が印刷されていても、まず疑う。
あの夜、自分が呼んでいた名前は誰のものだったのか。
そして、誰が「お母さん」と呼んでいたのか。
封筒は返したはずなのに、何かだけが、まだ戻っていない気がしている。
(了)