兄の十三回忌の準備で実家に戻ったのは、十月の半ばだった。
朝晩が肌寒くなり、街路樹がぽつぽつと赤みを帯びていたのをよく覚えている。
あの日のことは、いまだに夢と現実の境界が曖昧だ。記憶のなかで音だけがやけに鮮明に響いている。足音、電話のベル、泣き声、サイレン、仏壇の木魚の音。
私の実家は転々としていて、どこに根を張るでもなく漂うように暮らしていた。理由は省くが、何度目かの引っ越しで辿り着いたその町には、土地の名も人の名も、私たちにはまったく馴染みがなかった。
その家には、私の両親、義姉、そして幼稚園に通う姪の四人が暮らしていた。兄が早くに亡くなってから、義姉と姪を守ることが、私たち家族の無言の合意になっていた。
件の法事の打ち合わせの日。私は姪を幼稚園に迎えに行く手はずになっていた。事前に園にも伝えていた。義姉もそれで安心していたはずだった。
なのに、園に着くと姪がいない。
「もうお迎えが来られましたよ」
園の職員がそう言った時、私の背筋に冷たいものが走った。全身の毛穴が一斉に開いたような、あの感覚は忘れられない。
誰が迎えに来たのかと問うと、職員は「親戚の方と名乗られた」と答えた。私や義姉の名前を正確に出していたらしい。しかも、姪も抵抗なくついて行ったと……。
直ちに警察を呼んだ。実家にも連絡し、義姉もすぐに警察に通報した。
警察の聴取で「心当たりはありますか」と聞かれ、私は躊躇せずに「あります」と答えた。
かつての婚約者の写真を見せた。彼は義姉に異常な執着をしていた男で、私と婚約していたのも、義姉に近づくためだった。それが発覚して破談になったのだが、あの頃はまだ「ストーカー」という言葉すら一般的ではなかった。
警察が園の職員に確認したところ、彼の写真を見て「この人です」と証言が取れた。警察は彼の実家に連絡し、現住所を確認。そして我が家にも警察官が来て、状況の確認とともに、私たちに待機を命じた。
彼の住所は他県にあり、警察が向かったが、家には誰もいなかったという。
「帰ってくるのを見張っている。行き先が不明だから、向こうからの接触を待つしかない」と警察官は言った。
義姉は蒼白な顔で「夫さん……〇〇ちゃんを護って……お願い……」と何度も呟いていた。母は仏壇の前で、兄の遺影に向かって何かを必死に唱えていた。誰もが壊れそうだった。
幸運だったのは、その後、警察に一本の通報が入ったこと。
姪が保護されたのは、通報から数時間後。××ホテルの▲▲号室で、無事に確保された。
不思議なのは、そこからだった。
ホテルのフロントにかかってきた内線。「……苦しい、助けてくれ」と男の声だったそうだ。相当苦悶していたらしく、スタッフがすぐに部屋に確認に向かった。
さらに同時刻、ホテルの別の階で清掃をしていた女性が、一人の男に声をかけられた。
「ツレが女を刺した。警察と救急車を呼んでくれ。頼む」
そう言い残して、その男は立ち去ったという。清掃員は顔を覚えていなかった。急だったから、という。
それだけではない。
駅前の交番にも、若い男性の声で通報があったらしい。
「女の子が誘拐されてる。××ホテルの▲▲号室です。助けてあげてください」
しかも、それは110番ではなく、交番の固定電話への直通だった。
消防署にも同様の通報が入り、こちらもやはり、119番ではなかったそうだ。
結局、ホテルは騒然となり、スタッフが部屋に駆けつけて鍵を開けると、そこに姪が一人、布団にくるまって震えていた。
男の姿はなかった。工具の詰まった中古のスーツケースがひとつ、押入れにあった。ロープもあった。意識が遠のくような重さが、あのときの部屋にはこもっていたという。
ホテルは予約なしで飛び込みだったそうだ。だから、直前まで彼がそこにいることは誰にもわからなかった。
どうしてあの一連の通報があったのか。誰が、どこから、なぜ、という説明は今もできない。
警察は「犯人が罪の意識に耐えきれず、自作自演の通報をしたのでは」と言ったが、それならなぜ顔を隠し、声を変え、逃げたのか。なぜホテルのスタッフでもない者が清掃員に「女を刺した」などと偽情報を流したのか。そもそも、誰が彼にそのホテルを選ばせたのか。
私たち家族のなかでは、亡き兄が娘を守った――そういうことにしている。
仏壇の兄の遺影の写真は、あの事件の後から、なぜか柔らかく笑っているように見えた。
姪はすぐに落ち着きを取り戻し、今はもう大学を出て、しっかりと働いている。今度、帰省するときに「紹介したい人がいる」と言っているそうだ。
義姉からも「あなたもその日に合わせて帰ってきてほしい」と連絡があった。
もちろん、喜んで帰るつもりだ。だが私は、今も年に一度、あの男の所在を興信所に調べてもらっている。
調査費がもったいない? いいや、違う。あれは「費用」ではない。「おまじない」なんだよ。兄が守ってくれるかもしれない。けれど、こちらも現実的な準備をしていなければ、彼がどこかの部屋の隅にもう一度現れる気がしてならない。
私はまだ、あの電話の声が誰だったのか、知りたくてたまらない。
……でも、たぶん、知ってはいけないんだろう。
[出典:845 :本当にあった怖い名無し:2016/07/31(日) 10:35:33.84 ID:AosCvWEP0.net]