私は大学時代、テレビ局でアルバイトをしていた。
水曜日が全休だったため、ほぼ毎週その日にシフトを入れていた。仕事は楽で、時給も良く、社食も評判通りだった。内部の人間から紹介された仕事で、表向きは非の打ちどころがない。だが、待遇の良さと引き換えに、普通なら経験しなくていいことも起きる。
私は霊感がない。幽霊を見たこともなければ、声を聞いたこともない。ただ、異様に怖がりだった。今でも一人で寝るのが苦手だ。布団に横になると、根拠のない想像が勝手に膨らみ、頭の中で「くゎんくゎん」と揺れる感覚が始まる。耳元では「サリサリサリサリ」と、紙や砂を擦るような音が鳴り続ける。あれは霊感ではない。単に、極度に緊張したときに起こる身体反応だと、自分ではそう結論づけている。
テレビ局の建物は迷路のようだった。増築を重ねた結果らしいが、階と階が連絡通路で複雑につながり、同じ階でも別の建物に出ることがある。慣れない頃は、自分が今どこにいるのか分からなくなった。
私の担当部署は八階にあり、休憩中によく使う自販機コーナーは五階にあった。行き方は奇妙で、六階に降りて連絡通路を渡り、また八階に戻り、別の通路を経由してから五階に降りる。遠回りにもほどがある。だが皆それを当然のように使っていた。
ある日の休憩時間、なぜか空腹を感じなかった。食事を抜いて館内を歩いてみようと思い、階段で下り始めた。七階に差しかかったとき、普段は閉まっている扉が開いているのに気づいた。六階の連絡通路付近にある、職員証が必要なはずの扉だ。
一瞬ためらったが、立入禁止の表示はなく、誰かが使った後なのだろうと思って足を踏み入れた。
中は連絡通路になっていて、外光が差し込んでいた。六階の通路と同じ造りだ。通路を抜けると、見覚えのある配置のフロアに出た。左右にオフィス、ロッカー、トイレ。八階とほとんど同じだ。
ただ一つ違っていたのは、八階では物置になっているスペースが、自販機コーナーになっていたことだった。
近い。拍子抜けするほど近い。
そう思って中に入ったとき、奥の机に一人の男性が突っ伏しているのが見えた。職員だろう。昼寝でもしているのだと思った。
自販機に近づくと、違和感がはっきりした。電源は落ち、缶の見本は色褪せ、埃が積もっている。触れれば指の跡が残りそうだった。ここは、使われていない。
部屋全体が妙に静かだった。空調の音も、遠くの気配もない。男性も微動だにしない。
関わるべきではない。そう判断して、踵を返した瞬間だった。
頭が強く揺れた。「くゎんくゎん」という内側からの衝撃に、「サリサリサリサリ」という音が重なる。体が鉛のように重くなり、立っていられなくなった。床に座り込むのが嫌で、近くの椅子に倒れ込むように腰を下ろした。
無意識に、机に突っ伏していた。
何かがおかしいという感覚が、逃げろという衝動に変わる。しかし体は動かない。視線だけを上げたとき、椅子を引く音がした。
あの男性が、横に立っていた。
白いシャツの一部が焦げたように変色している。ベルトの金具はこちらを向いているのに、足先は逆方向を向いていた。しゃがみ込んだ拍子に、顔が見えた。
歪んでいた。片方の目は濁り、もう片方は空洞だった。裂けた唇から歯がのぞき、髪の隙間から何かが垂れている。遅れて、鼻を突く臭いが押し寄せた。腐敗とも違う、塩気のある重い臭いだった。
吐き気が込み上げたが、声は出なかった。
次に意識を取り戻したとき、私は病院のベッドにいた。手は包帯で覆われ、爪が剥がれていたらしい。詳しい説明はなかった。暴れて怪我をした、ということだけを聞かされた。
後日、家で両親から聞いた話がある。
私が倒れていた場所は、かつて使われていたフロアで、今は閉鎖されているということ。理由ははっきりしない。自殺があったとか、何かを見た人がいるとか、そういう話が断片的にあるだけだ。
監視カメラが、その日だけ映像を映したという話も聞いた。私は窓に向かって身を乗り出していたらしい。落ちようとしていたのか、押されていたのかは分からない。ただ、腰のあたりで何かが不自然に膨らみ、下半身が動かなかったという。
私は覚えていない。
今でも、ときどき思い出す。建物の中で道に迷い、普段は使わない扉が開いているとき、あの感覚が戻ってくる。頭が揺れ、あの音が聞こえる。
あの場所に、もう近づくことはない。
ただ一つ、分からないままのことがある。
あのとき、私はなぜ、そこに入ったのか。
そして、なぜ、出ようとしたのか。
[出典:http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1468681132/]