長野県に住む野田さん(仮名)から聞いた話。
その年の初夏、梅雨明け直後の晴れ間を狙って、旧友の森下と渓流釣りに出かけたという。目的地は某県北部の奥深い源流地帯で、一般的な登山道もなく、野営を伴う本格的な釣行だったらしい。
テントと食料、最低限の火器具をザックに詰めて、まだ夜が明けきらぬうちに出発した。空は雲ひとつなく、山々は露をまといながら眠るように静まり返っていた。気圧は高く、虫も少なく、風も穏やかで、渓流釣りにはこれ以上ない好条件だったという。
ところが登山口に向かう車中で、森下がふと呟いた。「ライターの予備、買ってなかったな」
一瞬の迷いののち、ふたりは最寄りのコンビニに戻ることにした。たかがライター、されど火器だ。山で火が起こせなければ、すべては無意味になる。
件のコンビニは山の斜面を削って作られた、小さなプレハブ建ての店舗だったという。中に入ると、朝の仕入れ中なのか、アルバイトの女性が品出しをしており、森下は雑誌棚に向かい、吉野さんはライター売り場へ足を運んだ。
その時、異様な存在感を放つ老婆のような老人が、背後から話しかけてきた。
「釣りに行くのかぇ?」
ひどくしわがれた声だった。振り返ると、八十はとうに超えていそうな、白髪で、顔中しわだらけの男が立っていたという。
「そうなんすよ」と答えると、その糸のような細い目がカッと見開かれ、
「塩は持ってるか?」
その問いに、一瞬何を言っているのか理解できず、苦笑いでごまかした。すると老人はぐっと顔を近づけてきて、鼻息混じりに低く言った。
「持ってけ。でないと、帰れんぞ」
あまりに異様な迫力に押され、吉野さんは調理用の塩の瓶を購入した。塩は山で汗をかいたときにミネラル補給になるし、魚の下処理にも使える。そう自分に言い聞かせながら、再び山へ向かった。
そこからの釣行は、まさに絶好調だったという。人の気配は皆無、岩魚は飽きるほど釣れる。昼を回るころ、源流を目指していたという若い男と出会った。沢口と名乗ったその男は、大学でロッククライミングをやっていたそうで、体格は大柄で頼もしかった。
三人で協力して釣り上がり、夕方には魚止めの滝にたどり着いた。そこが予定のキャンプ地だったが、沢口がロープで難なく岩をよじ登って見せたため、好奇心に駆られた吉野さんは「もう少し上まで行ってみよう」と言い出した。森下の顔色が曇った。
「……あの爺さん、言ってた。この先はヤバイ、って」
けれども好奇心が勝った。結局、沢口のサポートを受けて滝を越え、さらに上流へと足を進めた。そこには人の手の一切入っていない、異様なまでに静かな渓谷が広がっていたという。
夜、三人は焚き火を囲んで、塩焼きの岩魚と炊き込みご飯を味わった。山菜の香りが漂い、骨酒が染みた。「最高の一夜になる」と誰もがそう思っていた。
だが、それはすぐに覆された。
夜釣りに出ようとヘッドライトを点け、川岸を歩いていると、森下が不意に立ち止まり、呟いた。
「なぁ……あれ、木の下……しゃがんでないか?」
白いものが見えた。ぼさぼさの髪。女……いや、老婆のようだった。
こんな山奥に、こんな時間に、そんな人物がいるはずがない。だが、それは確かに存在していた。
ヘッドライトが照らした瞬間、それはするすると立ち上がり、何の音もなく樫の木を登りはじめた。
いや、違う。
それは熊だった。
驚愕の中、熊は襲いかかってきた。森下は咄嗟にナタで応戦し、熊の片目を潰した。血を撒き散らして逃げ去った熊。だが、森下は脇腹を深く裂かれ、歩くこともままならなかった。
その場に残った吉野さんと森下。沢口がロープを伝って、単身で救助を呼びに向かった。
深夜、渓谷を見下ろすと、遠くにヘッドライトの光が動いていた。
「全速力で……走ってるのか、ありがとう……沢口……」
そう思った。けれど、何かがおかしいと、直感が告げていた。
足場の悪い渓谷を、まるで飛ぶように進む光。それは……人の動きではなかった。
明け方になっても、沢口は戻らなかった。
幸運なことに、県外から釣りに来ていた年配のグループが衛星電話を持っており、ようやく救助が来た。
そして下山の翌日、新聞の地域欄にこう書かれていた。
「渓谷で登山者の遺体発見 熊に襲われ引きずられたか 身元は東京都在住の大学生・沢口××さん」
山中で、沢口の死体が発見されたのだ。足跡は、滝を越えたはるか手前で途切れていたという。
では、あの晩、渓谷を滑るように走っていた“光”は――
あれは、いったい、誰だったのか。
……塩の瓶は、今でも開けずに実家の神棚に置いてある。霧のような朝焼けが訪れるたび、そのガラスの中に、あの白いものがぼんやりと映る気がしてならないという。
(了)
[出典:323 本当にあった怖い名無し 2006/05/14(日) 19:26:55 ID:jKFIkyQz0]