転職して半年。部署は違うが、喫煙室でよく顔を合わせる五つ上の先輩と親しくなった。
最初は会釈を交わす程度だった。だが、似たような苦手上司の話をぼやいたのをきっかけに、自然と同じ時間に煙草を吸うようになった。休憩のたびに顔を合わせ、火を貸し合い、取り留めのない話をする。それだけの関係だったが、不思議と居心地は悪くなかった。
ある日、先輩が家庭の話をした。
「うちさ……ちょっと面倒なんだよ」
そう言って笑った顔に、違和感があった。右目の下に薄く残る痣。腕に細い引っかき傷。俺が視線を逸らすと、先輩は軽く肩をすくめた。
「たいしたことじゃないよ。神経質なだけ」
それ以上、話は広がらなかった。こちらから踏み込めば、何か戻れない場所に足を入れる気がして、聞かなかった。
数日後、その先輩から声をかけられた。
「今度、うちに来ない?土曜」
理由を聞く前に、「嫁が君に会いたがってる」と付け加えられた。その言い方が妙に曖昧で、誰の意思なのか分からなかった。断る理由も見つからず、結局、俺は頷いていた。
土曜の夕方、指定された家を訪ねた。駅から少し歩いた住宅地に、白い外壁の二階建てがあった。新しくも古くもない。だが、玄関先に生活の匂いが薄い。
迎えに出てきた先輩は、やけに機嫌がよかった。
「料理、用意してるから」
リビングには煮込みの匂いが満ちていた。並んだ料理は丁寧で、味も良かった。酒も進み、仕事の話で笑い声が出る。普通の夜だった。
「奥さんは?」
何気なく聞いた瞬間、空気が止まった。
「今日は上で休んでる。調子が悪いから」
声が少し低くなった。それ以上、話題は続かなかった。
しばらくして、天井から鈍い音がした。
ドン。
先輩は何も言わない。音がしたこと自体、最初から予定に含まれているようだった。
数分後、また音がした。今度は少し長い。床板が軋むような、重さの移動する気配。
冗談めかして俺が笑った、その瞬間だった。
連続した衝撃が天井を打った。間隔は一定ではなく、上下でもない。何かが落ちているのではなく、床そのものが耐えきれずに鳴っているようだった。振動が椅子に伝わり、歯が鳴る。
先輩は立ち上がった。
「悪い。行ってくる」
階段を上る足音が、途中で途切れた。
一人になった俺は、トイレを借りた。用を足し、廊下に出ると、二階から声が漏れていた。
「……だから……」
「………………」
「……少し……」
言葉は形にならず、返事の代わりに、低くこもった音が返る。人の声に似ているが、息の使い方が違う。
先輩が戻ってきたとき、顔色は灰色だった。
「泊まっていかないか」
理由は言わなかった。だが、その声には、俺を逃がさないための必死さがあった。
「明日、朝早くて」
咄嗟に出た言葉だったが、本能が選んだのだと分かった。
玄関で別れるとき、先輩は目を合わせなかった。
外に出て、振り返った。二階の窓は暗い。だが、カーテンの奥に、部屋の奥行きとは合わない濃さの影があった。
次の週、先輩は出社しなかった。そのまま姿を消した。
後日、喫煙室で別の上司に聞いた。
「石井さん、辞めたんですか。あの……ご家庭の事情とかで」
「結婚?してないだろ」
上司は不思議そうに首を振った。
「家を買ったって話はしてたな。一人で住むには広すぎるって」
それだけだった。
数年前、その課で一人、連絡が取れなくなった社員がいたという話を後で知った。最後に親しくしていたのが、石井先輩だったらしい。
もし、あの日泊まっていたら。
あの二階に近づいていたら。
あの家は、今も空いている。
片付けられたまま、誰かが来る前提で。
(了)
[出典:http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1438447220/l50]