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泊まらなかった理由 rw+4,799-0114

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転職して半年。部署は違うが、喫煙室でよく顔を合わせる五つ上の先輩と親しくなった。

最初は会釈を交わす程度だった。だが、似たような苦手上司の話をぼやいたのをきっかけに、自然と同じ時間に煙草を吸うようになった。休憩のたびに顔を合わせ、火を貸し合い、取り留めのない話をする。それだけの関係だったが、不思議と居心地は悪くなかった。

ある日、先輩が家庭の話をした。

「うちさ……ちょっと面倒なんだよ」

そう言って笑った顔に、違和感があった。右目の下に薄く残る痣。腕に細い引っかき傷。俺が視線を逸らすと、先輩は軽く肩をすくめた。

「たいしたことじゃないよ。神経質なだけ」

それ以上、話は広がらなかった。こちらから踏み込めば、何か戻れない場所に足を入れる気がして、聞かなかった。

数日後、その先輩から声をかけられた。

「今度、うちに来ない?土曜」

理由を聞く前に、「嫁が君に会いたがってる」と付け加えられた。その言い方が妙に曖昧で、誰の意思なのか分からなかった。断る理由も見つからず、結局、俺は頷いていた。

土曜の夕方、指定された家を訪ねた。駅から少し歩いた住宅地に、白い外壁の二階建てがあった。新しくも古くもない。だが、玄関先に生活の匂いが薄い。

迎えに出てきた先輩は、やけに機嫌がよかった。

「料理、用意してるから」

リビングには煮込みの匂いが満ちていた。並んだ料理は丁寧で、味も良かった。酒も進み、仕事の話で笑い声が出る。普通の夜だった。

「奥さんは?」

何気なく聞いた瞬間、空気が止まった。

「今日は上で休んでる。調子が悪いから」

声が少し低くなった。それ以上、話題は続かなかった。

しばらくして、天井から鈍い音がした。

ドン。

先輩は何も言わない。音がしたこと自体、最初から予定に含まれているようだった。

数分後、また音がした。今度は少し長い。床板が軋むような、重さの移動する気配。

冗談めかして俺が笑った、その瞬間だった。

連続した衝撃が天井を打った。間隔は一定ではなく、上下でもない。何かが落ちているのではなく、床そのものが耐えきれずに鳴っているようだった。振動が椅子に伝わり、歯が鳴る。

先輩は立ち上がった。

「悪い。行ってくる」

階段を上る足音が、途中で途切れた。

一人になった俺は、トイレを借りた。用を足し、廊下に出ると、二階から声が漏れていた。

「……だから……」

「………………」

「……少し……」

言葉は形にならず、返事の代わりに、低くこもった音が返る。人の声に似ているが、息の使い方が違う。

先輩が戻ってきたとき、顔色は灰色だった。

「泊まっていかないか」

理由は言わなかった。だが、その声には、俺を逃がさないための必死さがあった。

「明日、朝早くて」

咄嗟に出た言葉だったが、本能が選んだのだと分かった。

玄関で別れるとき、先輩は目を合わせなかった。

外に出て、振り返った。二階の窓は暗い。だが、カーテンの奥に、部屋の奥行きとは合わない濃さの影があった。

次の週、先輩は出社しなかった。そのまま姿を消した。

後日、喫煙室で別の上司に聞いた。

「石井さん、辞めたんですか。あの……ご家庭の事情とかで」

「結婚?してないだろ」

上司は不思議そうに首を振った。

「家を買ったって話はしてたな。一人で住むには広すぎるって」

それだけだった。

数年前、その課で一人、連絡が取れなくなった社員がいたという話を後で知った。最後に親しくしていたのが、石井先輩だったらしい。

もし、あの日泊まっていたら。
あの二階に近づいていたら。

あの家は、今も空いている。
片付けられたまま、誰かが来る前提で。

(了)

[出典:http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1438447220/l50]

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