転職して半年。部署は違うが、喫煙室でよく顔を合わせる五つ上の先輩と仲良くなった。
最初は軽い挨拶程度だったが、似たような苦手上司の愚痴でもこぼした拍子に打ち解けて、それからというもの、休憩のたびに煙を分け合うのが日課になった。
ある日、そんな先輩が家庭の話をした。
「うちの嫁さ、ちょっと厄介なんだよ」
言葉を濁しながらも、顔に浮かんだ笑みはどこか痛々しかった。右目の下には青痣、腕には爪で引っかかれたような痕。思わず目を逸らした俺に、先輩は笑いながら言った。
「いや、最近たまに聞くだろ?DV妻って……まぁ、そんな大げさなもんじゃないよ。ただちょっと神経質なだけさ」
冗談めかして笑っていたが、あの傷がただの「神経質」で済むとは思えなかった。でも、それ以上は聞けなかった。聞いてしまえば、何か重たいものが付きまとってくるような気がしたからだ。
そんな矢先、先輩から家に招待された。
「嫁がね、君のこと見てみたいって言うんだ。土曜、空いてるか?」
妙な話だった。普段他人との付き合いに無頓着そうなその奥さんが、なぜ俺に会いたがるのか。だが好奇心には抗えなかった。どんな人間なのか、どうしても見てみたかった。
土曜の夕方、先輩の家を訪ねた。駅から歩いて十分ほど、白い壁の二階建て。小綺麗だが、どこか生活感のない印象を受けた。出迎えた先輩は満面の笑みだった。
「ようこそ。料理は俺が作るから楽しみにしてて」
リビングにはビーフシチューのいい匂いが漂っていた。テーブルに並ぶ料理はどれも見た目からしてプロ並みで、口に運べば味も申し分なかった。会話も弾み、焼酎を酌み交わしながら、気づけば俺はすっかりくつろいでいた。
だが、一つ気になった。
「奥さん……ご挨拶だけでも」
言いかけると、先輩は慌てて手を振った。
「いや、今日は体調崩して二階で寝てるんだ。機嫌も悪いから、無理に顔出すのはやめといた方がいい」
その言葉には、妙な迫力があった。拒むというより、怯えているような。俺はそれ以上何も言えなかった。
ドン。
突然、天井から音がした。
最初は、何か物を落としたのかと思った。でも、その一分後――
ドン!ドン!ドン!
まるで抗議するような音。上階から怒気が伝わってくるような。俺たちは顔を見合わせ、互いに声を落とした。
けれど、先輩の冗談に俺が少し大きめの声で笑った、その瞬間だった。
ドドドドドドドドドドド!!!
ダダダダダダダダダダ!!!
ドンドンドンドンドン!!!
天井から轟くような音が降ってきた。地響きにも似た振動。何かが――いや、誰かが――あの真上で暴れている。手加減も理性もない音。心の中にある何かが、ぶち壊されるような恐怖。
先輩は苦笑いを浮かべた。
「ごめんな。ちょっと機嫌とってくるよ」
そう言い残して、階段をのぼっていった。
一人きりになった俺は、ようやく尿意を思い出し、トイレを借りた。用を済ませて廊下に出ると、二階から先輩の声が漏れていた。
「……だから謝って……し……」
「………………」
「少し……我慢……てくだ……い」
「………………」
か細く、途切れ途切れの声。合間に、ボソボソとしたつぶやきのような音が聞こえる。だがその声は、女というにはあまりにも低く、こもりすぎていた。
階下へ戻ると、先輩も戻ってきた。だがその顔は青白く、笑顔も消えていた。
「泊まっていかないか?嫁もその方がいいって言ってるし……」
それは妙に切実な声だった。俺を引き止める力が、どこか必死すぎて、逆に恐ろしかった。
「すみません。明日、資格試験があって……」
とっさの嘘ではなかった。だがその瞬間、自分の本能が命綱を握ったのだと悟った。
帰り際、先輩の態度は一変した。
「じゃあ」
冷たい、感情の抜け落ちた声。玄関のドアが閉まる直前、振り返った先で、先輩が奥へ消えていく姿が見えた。その顔は蝋人形のように無表情だった。
外壁の前で、ふと背中に視線を感じた。反射的に見上げると、二階の窓のカーテンが微かに揺れていた。明かりはなく、真っ暗な奥。だが、その奥の闇と目が合った気がして、体が凍りついた。
次の月曜、俺は謝るつもりで先輩を探した。だが彼の姿はなかった。聞けば休んでいるという。それから数日、先輩は出社せず、そのまま辞めた。
しばらくして、先輩がいた課の上司と喫煙室で会った。
「石井先輩、急に辞めちゃいましたけど……やっぱ奥さん関係してるんですかね?」
すると上司は怪訝そうに首をかしげた。
「え?アイツ、結婚なんかしてなかっただろ。そんな話、聞いたこともないぞ」
唖然とした。俺は、あの家での出来事を話したが、上司は最後まで首をかしげていた。
「あぁ、でもな……一度だけ『いい人を見つけた』って言ってたことがあったな。中古の家を買った頃だったか……」
その後、ひとつの噂を耳にした。数年前、先輩がいた課の若手が突然行方不明になったという。先輩と仲が良かったそうだ。
……もしあの日、泊まっていたら。
あの時、何かの影に招かれていたのではないか。
あの家の二階にいた「何か」は、今もまだ、あの白い家の奥で誰かを待っているのかもしれない。
(了)
[出典:http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1438447220/l50]