二十年前に死んだ兄のことを、いまも鮮明に覚えている。
血がつながった者同士だからというより、まるで双子のように息が合い、私は兄のあとを影のようについて歩いていた。学校から帰るとすぐ、ランドセルを放り投げ、近所の空き地で基地ごっこをするのが私たちの日課だった。夕焼けの中、草むらに座り込んで、秘密の作戦を立てたり、空き缶を手榴弾に見立てて投げ合ったり――子供じみた遊びに夢中だった。
その日もそうだった。五月十八日の夕方、夏の気配が少し混じった風が吹いていた。地面に長く伸びた影の中で兄とふざけ合っているうち、私は急に腹の底がきゅっと痛み、慌ててトイレに行きたくなった。
「すぐ戻る」
兄に声をかけ、私は一人で走って家に戻った。
家には母の姿がなかった。いつものように買い物に出ているのだろう。玄関の鍵は開け放たれていて、畳の上に夕暮れの光がすじのように差し込んでいた。
そのとき、黒電話が鳴った。
ただ、鳴り方がおかしかった。リーン……と一度だけ鳴り、しばらく沈黙してから、またリーン……と遅れて響く。普段なら立て続けに鳴るはずなのに、間隔が異様に長い。部屋の空気がひやりと変わった気がした。
怖くて受話器に手を伸ばすことができなかった。電話は数回鳴ったあと、ふいに途切れた。胸の奥に、誰かがこちらを覗いているような不快感が残った。
それから十分ほど経った頃、またベルが鳴り出した。同じ調子で、間の抜けた、不吉な間隔を保ちながら。逃げ出したい気持ちと、母からかもしれないという期待とがせめぎ合い、私は意を決して受話器を持ち上げた。
「早坂さんですか」
低くくぐもった男の声だった。どこか遠くから、海の底から響いてくるような声。鼓膜に直接触れてくるようで、思わず息を呑んだ。
「……はい」
小さく答えた。
「早坂聖人さんが、選ばれました」
兄の名が呼ばれた。
一瞬、懸賞にでも当たったのかと思い、反射的に「ありがとうございます」と返した。すると、男はひとこと「さようなら」と告げ、無慈悲に電話を切った。
受話器を置いた手が震えていた。黒電話のベルの余韻が、まだ頭の中で鳴り続けているようだった。
しばらくして母が帰ってきた。私はさっそく「兄が何か当たったらしいよ」と話したが、母は気のない返事をした。あの時の自分の声は、どこか浮き足立っていたと思う。早く兄にこのことを知らせたい、兄が帰ってきたら笑顔で受話器の真似をしてやろう。そんなことばかり考えていた。
けれど、兄は帰ってこなかった。
暗くなっても、どれだけ待っても。近所の人が加わり懐中電灯を手に探し回ったが、どこにも姿がなかった。母の顔から血の気が引いていく様子を、私はただ呆然と見ていた。
翌日、兄は見つかった。空き地の隣の用水路の底で、冷たくなって。
世界がひっくり返った。叫んで、泣いて、喉が裂けるほど母に訴えた。昨日の電話のことを、選ばれたと告げた声のことを、全部話した。母は蒼白になり、警察が動いた。電話局にも確認がいった。
だが――そんな電話はなかった。記録上、私が受けた時間帯に着信は一切残されていなかった。
兄の遺体のそばには、泥に残された足跡があった。どうやら足を滑らせて落ちたらしい。事故として処理された。
事故、だと。
あの電話は? 選ばれた、という声は?
夢だったのかもしれないと何度も思った。けれど、あの不気味なベルの間隔を私は忘れられない。
リーン……五秒の沈黙……リーン……。
まるで、どこか別の場所からの呼び出し。人間の時間とは違う、冷たい時の流れに従って鳴らされていたような。
それから年月が経った。兄が死んで二十年。私は大人になり、結婚し、子供までいる。それでも、五月十八日が近づくと胸の奥にじりじりと黒いものが広がってくる。
先日、台所で夕飯の支度をしていたとき、古い物置から妙な音がした。耳を澄ますと、錆びついたベルのような響きが小さく繰り返されていた。確か、あの物置には使わなくなった黒電話が仕舞ってあったはずだ。
胸が凍りつき、足がすくんだ。あの電話はとうに回線が切られている。ただのガラクタのはずなのに。
私は震える手で扉を開いた。埃をかぶった黒電話が薄暗い中に鎮座していた。受話器が勝手に震えているように見えた。
リーン……五秒の空白……リーン……。
耳の奥で何かが裂けるような痛みが走り、私は咄嗟に受話器を掴んでいた。
「……早坂さんですか」
あの声だった。二十年前に聞いたままの、遠くくぐもった男の声。背中に氷の刃を押し当てられたような感覚で、私は声を失った。
「――はい」
気づけば答えていた。
「早坂……美沙さんが、選ばれました」
それは、私の名前だった。
受話器の向こうから、押し殺したような笑い声がかすかに漏れ、ぷつりと切れた。電話は沈黙したまま動かない。
台所に戻ると、鍋の中で煮えていたはずの味噌汁が、なぜか氷のように冷たくなっていた。
私は、それから毎晩、耳を澄ませてしまう。
あのベルの音が、またどこかで鳴っているのではないかと。
兄を奪った声が、次は私を呼んでいるのではないかと。
逃げ場はない。時間が来れば、きっとまた鳴る。
私はいまも、その時を待っている。