あの年の夏は、街全体がどこか薄かった。
震災の後で、T県に出向していた。仮設住宅の白い壁と、ひび割れた歩道と、立ち入り禁止の札。昼は復旧の音で騒がしく、夕方になると急に静まる。その落差が、妙に耳に残る土地だった。
仕事帰り、駅前の広場で名前を呼ばれた。
振り向くと、Aが立っていた。
高校時代、同じ部活で走り込んだ仲だ。痩せてはいたが、顔つきは変わらない。地元を離れた場所で旧友に会う偶然に、頭が追いつかなかった。
「飲みに行こう」と言うと、Aは首を振った。
「今、酒はちょっとな」
代わりに喫茶店に入った。冷房が強すぎて、店内だけ季節が違うようだった。
Aは結婚したこと、子供がいることを話した。写真は見せなかった。携帯を取り出そうとして、やめた。
「最近、痩せたせいか自動ドアが反応しなくてさ」
冗談のように言う。笑っているのに、目は動かない。
「電話もな、向こうの声は聞こえるんだけど、こっちの声が届いてないみたいで」
俺は適当に相槌を打った。病気で入院しているのかと聞きかけて、やめた。Aは自分から何も言わない。聞けば壊れそうな気がした。
コーヒーが運ばれてきた。俺は一口飲んだ。Aはカップに手を添えたまま、口をつけなかった。
別れ際、地元でまた会おうと約束した。握手をした。体温は、あった。
店を出ると、自動ドアは普通に開いた。振り返ると、Aはまだ中に立っていた。ガラス越しに、こちらを見ている。だが、ドアは閉まったまま動かない。店内に他の客はいないのに、Aの前だけが沈黙していた。
声をかけようとしたが、音が出なかった。喉が乾いていた。
そのまま帰った。
忙しさに紛れて、Aのことは薄れていった。震災の年は、誰もが何かを失っていた。ひとつくらい、記憶が混じっても不思議ではないと思っていた。
昨年、高校の同窓会に呼ばれた。
名簿を回し読みしていると、誰かが言った。
「Aは来ないのか」
空気が止まった。
「震災の年に亡くなったよ。ガンだった。あの夏は、もう病院から出られなかった」
笑い声は戻らなかった。
俺は言った。「いや、あの夏、T県で会ってる」
全員がこちらを見る。
「その頃、Aは意識もなかったはずだ」
写真が回ってきた。祭壇の前に並ぶ花と、痩せ細ったAの顔。日付は、俺が喫茶店で会った数週間前になっていた。
帰宅後、あの店を探した。駅前の広場はある。だが、あの喫茶店が見つからない。同じ場所には、空きテナントのまま、シャッターが下りている。
通行人に聞くと、そこは震災の直後に閉店したという。
その夜、携帯に着信履歴が残っているのを見つけた。震災の年の夏の日付で、Aの名前。発信は俺になっている。通話時間は、二分十七秒。
かけ直そうとしたが、番号は現在使われていなかった。
俺は、あのとき何を話したのか思い出せない。喫茶店での会話は覚えているのに、電話の内容だけが空白だ。
最近、自動ドアの前で立ち止まることがある。近づいても、反応が遅い。ガラスに映る自分が、ほんの一瞬、薄くなる気がする。
あの夏、Aは「存在が軽い」と笑っていた。
もしかすると、あの街で境界に立っていたのは、Aだけではなかったのかもしれない。
名簿をもう一度見直した。
そこに、俺の名前は載っていなかった。
[出典:617 :本当にあった怖い名無し:2015/06/17(水) 11:51:53.43 ID:cFVIfff60.net]