僕の母の実家は、長野の山奥にある。信州新町からさらに奥へ入った、地図の端に追いやられたような集落だ。
あの腕輪を見つけたのは、小学校四年の夏だった。親の都合で、半ば放り込まれるようにその家へ連れて行かれた。携帯は圏外、店も信号もない。緑と沈黙だけが濃く溜まった場所だった。救いは、隣の家に同い年の昌平が来ていたことだけだ。
三日目の夕方、日が傾きはじめたころ、二人で裏山へ入った。獣道を少し外れた先で、苔に覆われた小さな石碑を見つけた。膝ほどの高さ。道祖神に似ている気もしたが、彫られているものが違った。寄り添う男女ではない。四人の人間が絡み合い、互いの腕や首に縋りつくように立っている。どの顔も歪み、口を開け、叫んでいた。目は剥かれ、歯がむき出しだった。
気持ち悪い、と口にした瞬間、昌平が足元の土を掘り始めた。何かある、と言った。止める間もなかった。
出てきたのは、手のひらほどの腐った木箱だった。墨を流したような文字が走り書きされ、裂け目から黒い紐のようなものが覗いていた。引き抜くと、それは艶のある黒い縄で編まれた輪だった。結び目に五つ、石のような玉が付いている。それぞれに、読めない漢字が刻まれていた。

俺が見つけた。昌平はそう言って、ためらいなく腕に通した。やめろ、と叫んだときには遅かった。
ケエェェエエ。
獣とも鳥ともつかない声が山に響いた。笑い声のようなものが、遠くで折り重なった気がした。気づくと、あたりは夜の色に沈んでいた。慌てて山を下り、家へ戻った。何が起きたのか、誰にも言えなかった。
夜十時を回ったころ、黒電話のベルが破裂音のように鳴った。祖父が受話器を取った途端、顔色が変わった。受話器を置くと、僕の部屋へ飛び込んできて腕を掴んだ。
裏山へ行ったか。石を見たか。箱を開けたか。
震えながら、今日のことを話した。母も祖母も、息を呑んだまま動かなかった。祖父はどこかへ電話を一本入れ、行くぞと言って、僕と祖母を連れて隣家へ向かった。
玄関を開けた瞬間、異臭が鼻を刺した。土と鉄と汗、それに腐った何かが混じった匂い。奥の間から怒鳴り声が聞こえる。
部屋に入ると、昌平が畳に横たわっていた。目は虚ろで、口は開き、泡混じりの涎を垂らしている。右腕に、あの腕輪が食い込んでいた。
いや、もはや輪ではなかった。編まれていた黒縄はほどけ、一本一本が肉に突き刺さり、根を張るように広がっている。皮膚の下を、何かが這い回っていた。指先は黒く変色し、石のように硬直していた。
祖父が呟いた。かんひもじゃ。
台所へ走り、戻ってきた祖父の手には包丁があった。もう手はだめだ、まだ頭には届いていない。そう叫び、昌平の祖母が泣きながら頷いた。
包丁が振り下ろされた。音は軽かった。血は出なかった。代わりに、ぱらぱらと黒いものが溢れた。髪の毛だった。無数の細い髪が、畳の上を生き物のように蠢き、やがて静止した。
その夜、寺から坊主が呼ばれ、読経が朝まで続いた。僕も形だけの祓いを受け、震えながら夜を越した。
翌朝、昌平は家族とともにいなくなっていた。腕は失われ、目は開いても、もう何も映らないと聞いた。
それから何年も経っている。大人になった今でも、僕は時折、あの裏山の夢を見る。夢の中で、石碑の顔が一つ増えていることがある。叫ぶ口の中から、黒い糸が垂れている。
あの腕輪について、深く調べたわけじゃない。名前を知っている者も、もう村にはいない。ただ、祖母がぽつりと漏らした言葉だけが残っている。昔、戻してはいけないものがあった、と。
最近、風呂場で髪を洗っていると、排水口に絡まる量が増えた気がする。指に巻き付く感触が、あの縄に似ている。気のせいだと、そう思うことにしている。
裏山には、もう近づかない。掘り返さない。身につけない。
あれは、まだ終わっていない。
(了)