夜の林道で見た光は、いまも彼の記憶の奥で消えずに揺れている。
十五年前、免許を取りたての彼は、地図に載らない道を走ることに取り憑かれていた。舗装の途切れた林道、崩れかけたガードレール、落ち葉に埋もれたカーブ。危険であるほど胸が高鳴った。相模湖から奥多摩へ抜ける山中のルートも、そのひとつだった。
その夜、彼は単独で山に入った。街灯のない道をヘッドライトだけで切り裂く。エンジン音が山肌に跳ね返り、自分の存在を誇示するように響く。だが、標高が上がるにつれ、音は吸い込まれ、代わりに妙な圧迫感が増していった。
片側交互通行の仮設信号が赤を示していた。こんな時間に待つ必要があるのかと一瞬思ったが、彼は律儀に停止した。アイドリングの振動がやけに弱い。回転数は落ちていないのに、鼓動だけが遠のくような感覚だった。ヘッドライトの輪郭がわずかに揺らぎ、闇が一歩ずつ近づいてくる。
そのとき、背後に光が生まれた。
バックミラーに白い点が映る。徐々に大きくなる。バイクのライトだと思った。同好の士がいるのかと、張り詰めた心が緩む。だが、その光は減速しなかった。赤信号のはずの道を、彼の横をすり抜ける勢いで通過した。
追い越された、はずだった。
だが、視界のどこにも車体はない。エンジン音も排気音も残らない。光だけが、彼の前方へ滑るように消えた。
信号が青に変わるまで、彼は動けなかった。
再び走り出し、いくつかのカーブを抜けた先で、焚き火の明かりが見えた。数台の車が止まり、若者たちが笑っている。人の気配に、彼は迷わず近づいた。「こんな時間に何してるんですか」と声をかけると、軽い調子で迎え入れられた。山中で偶然集まっただけらしい。バーベキューの匂いが漂い、缶ビールの音が鳴る。
彼は、さきほどの光の話を口にしなかった。自分の錯覚だと片づけたかった。
だが、女性の一人が山の稜線を指さした。「あれ、何?」
闇の上に、白い光が浮いていた。星よりも低く、月よりも鋭い。ゆっくりとこちらへ降りてくる。
場の空気が変わった。冗談は消え、誰かが「車、出そう」と言った。次の瞬間、全員が走り出していた。
彼も逃げるべきだった。だが、なぜか焚き火の影に身を伏せ、光を見た。視線を外せなかった。
光は音を伴わない。サーチライトのように地面をなぞり、焚き火の跡を横切る。やがて彼のバイクを照らした。白い円が車体に固定される。
選ばれた、と直感した。
慌てて跨がろうとした拍子にバイクを倒す。焦りで手が震える。セルはない。押しがけしかない。暗闇で車体を引き起こし、傾斜に任せて二速に入れる。足が滑る。ようやくエンジンが爆ぜるように始動した。
振り返ると、光は一定の距離を保ったまま追ってきていた。速すぎる。道の形状を無視して動いている。彼はスロットルを限界まで開け、カーブを削るように走った。
前方に、先ほどの四輪駆動車が現れた。車内の影が揺れている。彼はクラクションを鳴らす余裕もなく、その背後に貼りついた。後ろには光。前には車。逃げ場がない。
そのとき、路肩の車止めにわずかな隙間を見つけた。判断する暇はなかった。彼は車体を傾け、その隙間へ突っ込んだ。ハンドルがかすめ、ステップが石に当たる。だが抜けた。
振り向くと、光は直進した。四輪駆動車を包むように覆い、林道の奥へと進んでいく。車のテールランプが揺れ、やがて闇に飲まれた。
音は、最後まで聞こえなかった。
夜明けが山を薄く照らすころ、彼はひとりで立ち尽くしていた。戻る気にはなれなかった。麓まで下り、コンビニの駐車場でようやく呼吸を整えた。
四輪駆動車の姿は見ていない。事故のニュースも聞いていない。だが、あの焚き火の場所を地図で探しても、彼は二度と辿り着けなかった。
数日後、ヘルメットを置き忘れたことに気づいた。取りに戻る理由はあった。だが、彼は行かなかった。山に入るたび、ヘルメットの内側にわずかな焦げ跡があるような錯覚に襲われるからだ。
あの夜、選ばれたのは本当に四輪駆動車だったのか。
彼は今も、確信を持てない。
[出典:343 名前: あなたのうしろに名無しさんが……03/12/26 00:34]