夜の天井を見上げる癖は、幼稚園の頃から続いていた。
小さな体をベッドに沈めると、目の前には白い平面が広がる。無地のようで、近づくと筆のかすれや塗りムラが見える。そこに淡い影が流れていくのが好きだった。外の街灯がカーテンの隙間を縫い、天井の角に微妙なグラデーションを作る。呼吸のたびに影が揺れ、天井全体が生き物のように波打つ気がした。
ある晩、母が寝室の電気を消した後も、私は眠れずにいた。
冬の乾いた空気が鼻を刺し、静電気の音がシーツの中で弾けた。私は毛布を鼻まで引き上げ、ただ天井を見ていた。部屋のどこかで時計がコチ、コチと音を刻む。そのリズムが途切れた瞬間、天井の模様がずれるように見えた。
最初は目の錯覚だと思った。
でも、次の瞬間、小さな「キイ」という金属音が頭の上から聞こえた。天井のどこかに、見たことのない線が浮かび上がる。蛍光灯の影に隠れていたはずの継ぎ目が、ゆっくりと開いていくように感じた。私は息を止めた。
その線が淡く光を帯び、まるで空間の皮膚が剥がれるように動いた。
カリカリという音が連続し、壁と天井の境界が震える。
まるで巨大な装置の一部が作動する音。子供の私はその光景を「変身」と思った。天井が部屋から別の世界へ変わる、儀式のように見えたのだ。
光は金属的で、冷たく、息を吸うと血の味がした。
天井が反転したように、銀色のパネルが浮かび上がり、無数の円孔がゆっくりと呼吸しているようだった。微かな低音が腹に響き、部屋全体がわずかに沈む感覚がした。私は目を見開いたまま、まばたきも忘れた。
眠る前のぼんやりとした時間だったのに、その瞬間だけは異様に鮮明だった。
指先でシーツを握る感触、喉の奥で鳴る自分の心臓音、そして何より天井の裏側に広がる“何か”の気配。それは夢の質感とは違っていた。どこか現実の延長線上にあるような、微妙に生々しい空気が漂っていた。
どれくらい見つめていたのか覚えていない。
気づいた時には、天井は何事もなかったように白く戻っていた。継ぎ目も、光も、音も、すべて消えていた。私はそのまま朝まで眠れなかった。
翌朝、母に話してみようと思ったが、声に出す瞬間、胸が強く締めつけられた。
言葉にしたら、あの光景が“普通の出来事”になってしまう気がしたのだ。
だから黙ったまま、ただいつもより長く天井を見上げていた。
小学生になってからも、眠る前に天井を見上げる癖は抜けなかった。
その頃にはもう、あの夜のことを“夢だったのかもしれない”と自分に言い聞かせていた。
ただ、ときどき、天井の隅の影がゆらりと動くたび、喉の奥がひゅっと鳴った。
まぶたを閉じても、視界の裏にあの金属の輝きがこびりついて離れなかった。
ある晩、妹が私の部屋にやって来た。
夏の寝苦しい夜で、彼女はタオルケットを抱えて「一緒に寝る」と言った。
姉妹で並んで横になると、部屋の天井が二人分の体温で曇るように揺れて見えた。
何とはなしに、私は軽い気持ちで口にした。
「ねえ、天井が動くように見えたことってある?」
妹はしばらく黙っていた。
その沈黙が妙に重く、私は息を吸うのをためらった。
そして、彼女は小さな声で言った。
「……お姉ちゃんも見たの? あれ」
毛布の中の空気が一瞬で冷たくなった。
妹は枕元の闇を見つめたまま続けた。
「夜中に目を開けたら、天井が銀色になっててね……なんか、音がしてたの。ガシャガシャって。
怖くて目をつぶったけど、次の日には元に戻ってた」
私は言葉を失った。
あれは私だけの幻ではなかった。
その事実が恐怖よりも先に、不思議な安堵をもたらした。
誰かと共有できるということが、世界の輪郭を確かにするように思えたのだ。
だが、同時に頭の奥で鈍いざわめきが起こった。
二人とも同じものを見たということは――何かが本当に、そこに“あった”ということではないか。
その晩、私たちは電気を消さずに眠ることにした。
蛍光灯の白い光が、天井の模様をくっきり浮かび上がらせる。
妹はいつの間にか眠り、かすかな寝息を立てていた。
私は眠れなかった。
耳の奥で何かがかすかに鳴っている。
キン……という高い音が、一定の間隔で続いていた。
音の出どころを探しているうちに、視線が自然と天井へ吸い寄せられた。
白いはずの面が、ゆっくりと灰色を帯び始めている。
光の加減だと自分に言い聞かせたが、違った。
明らかに“変わっていく”――塗装の下から金属の質感が現れていた。
そこから先は、記憶が断片的になる。
天井の継ぎ目が開く音、まぶしさ、そして視界の端に浮かんだ無数の影。
それは何かの機械的な構造物のようでもあり、肉のようにも見えた。
目をそらすことができず、息を吸うたびに体が沈んでいく感覚だけが続いた。
次に意識が戻ったとき、部屋は朝の光で満たされていた。
妹はまだ眠っており、天井はただの白い板に戻っていた。
あの夜の出来事を確認するために、私は天井の中央に貼られた小さな染みを指差した。
「ここ、見た? 昨日、開いてたところ」
妹は寝ぼけた顔のまま、ゆっくりとうなずいた。
「うん。でも……あそこ、今も動いてるよ」
私は慌てて見上げた。
天井の中央、染みの輪郭が、わずかに呼吸するように膨らんでいた。
まるで部屋そのものが、私たちを覗いているみたいだった。
あの“呼吸する染み”を見た晩から、私は夜が苦手になった。
部屋の電気を消すたび、天井が微かに動く気がして、眠る前に天井を確かめるのが日課になった。
確認しなければ、もっと恐ろしいものが起こる気がしたのだ。
妹は何も言わなかったが、夜中にふと目を覚ますと、隣で彼女も同じように天井を見ていた。
二人とも、天井の下で息を潜めていた。
ある晩、外で雷が鳴った。
稲光が窓の縁を照らし、瞬間的に天井が青白く光った。
その刹那、私は見てしまった。
天井の裏側に、何かが“這っている”影を。
輪郭の定まらない黒い線が、金属の継ぎ目を這い回り、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
身体が動かない。
恐怖というより、何かを思い出してはいけないような感覚が襲ってきた。
胸の奥で、古い記憶が反転するように疼く。
あれは初めて見た夜と同じ音だった。
キイ……カシャン……
冷たい機械の作動音が、子どもの頃の鼓動と重なって鳴る。
天井が、再び開いた。
銀色のパネルが滑るように分かれ、暗い空洞が覗く。
その奥には、まるで裏返しになった部屋のような景色が広がっていた。
家具の輪郭が逆光に照らされ、そこにもう一つの“私たち”が寝ていた。
その“私たち”もまた、天井を見上げていた。
私は声を出そうとしたが、喉が固まっていた。
鏡のように見えるその向こう側で、もう一人の私が小さく笑った。
笑ったまま、口を開かずに囁くような声が頭に直接響いた。
――こっちを見てるのは、どっち?
その瞬間、天井が完全に開き、視界が反転した。
私は浮き上がるように体を引き上げられ、空気が裏返るような圧力を感じた。
下を見ると、ベッドの上で妹が私を見上げていた。
泣いていた。手を伸ばしていた。
でも、その表情がすぐに遠ざかっていった。
次に目を開けたとき、私は“天井の側”にいた。
そこは静かだった。
空気の動きも、時間の流れも、まるで水の底のように鈍かった。
下を見ると、部屋の天井越しに妹が眠っているのが見えた。
彼女は夜ごと目を覚まし、あの白い板をじっと見上げている。
私は声を出せない。
ただ、視線の向こうで妹の顔がわずかに揺れるのを見つめている。
そして、気づく。
彼女の目線が、天井ではなく、こちら――私をまっすぐに見ていることに。
それ以来、私はずっと天井の上にいる。
毎晩、部屋の下から視線を感じるたび、懐かしさのようなものが滲む。
あの夜見た“もう一つの世界”は、たぶんこのことだったのだろう。
私たちは最初から、互いの天井と床を挟んで見つめ合っていた。
どちらが“現実”で、どちらが“裏”なのか、もう区別がつかない。
妹は大人になり、もうこの部屋にはいない。
けれど、時々、別の誰かがこの部屋を使うらしい。
夜中、ふと目を開けたその人が天井を見上げた瞬間、私はゆっくりと顔を近づける。
――今夜も、見えているだろうか。
あの銀色の天井の裏側に、誰かがこちらを見ていることを。
——完——
[出典:104 :本当にあった怖い名無し ハンター[Lv.40] (ワッチョイ 634c-zKn+):2025/02/12(水) 22:41:34.42ID:2rvIw34G0]