駅前のロータリーを歩いていたとき、肩を叩かれた。
午後三時過ぎ。重たい雲の隙間から、薄く光が漏れていたのを妙にはっきり覚えている。
振り返ると、地味なスーツ姿の女が立っていた。口元を引き結び、困ったような真顔で言った。
「私と、どこかで会いませんでしたか」
知らない顔だった。「人違いだと思います」と答えると、彼女は一度視線を落とし、「そうですよね」と呟いた。
だが次の瞬間、顔を上げ、こちらをまっすぐ見て言った。
「一目惚れしました。付き合ってくれませんか」
ナンパだと思った。唐突すぎて笑いそうになったが、彼女の目は笑っていなかった。
軽く浮ついた気分のまま連絡先を交換し、それが始まりだった。
付き合ってみると、やはりどこかおかしかった。会話は噛み合うが、感情の動きが少し遅れる。笑顔の奥に、いつも別の何かを見ている気配があった。
三ヶ月ほど経った頃、ドライブに誘った。
「車」という言葉を出した瞬間、彼女の表情が一度、完全に止まった。
すぐに笑顔に戻り、「行きたい」と言ったが、妙なざわつきが残った。
当日、彼女は大きなリュックを背負って現れた。
冗談めかして指摘すると、曖昧に笑った。
山道を走っていると、助手席の彼女がぽつりと言った。
「今日、かもしれないね」
聞き返すと、「何でもない」と言って目を逸らした。
夕方、路面が凍り始めたカーブで車が滑った。
次の瞬間、視界が裏返り、音だけが砕け散った。
意識が戻ったとき、彼女は俺の頭に包帯を巻いていた。
ガーゼ、止血帯、カイロ。すべて迷いなく取り出し、淡々と処置する。その手際は、まるで何度も繰り返した作業のようだった。
「大丈夫だから」
その声は不思議なほど落ち着いていた。
入院後、理由を尋ねると、彼女はしばらく黙り、やがて話し始めた。
何度も同じ夢を見ていたこと。夜の山道、事故、助けられない男。
ある時から、夢の視点を変えたこと。助手席に座り、何を持てばいいか、どう動けばいいかを何度も試したこと。
「夢の中でしか知らない顔が、駅前にいた」
そう言って彼女は泣いた。
俺は信じた。信じたというより、信じない理由を失った。
結婚し、娘が生まれた。
二歳になった娘が、草むらを走り回るのを見た瞬間、胸が締め付けられた。
それは、昔から何度も見てきた光景だった。理由もなく懐かしく、幸福で、説明できない感覚を伴う映像。

だが、ひとつだけ違和感があった。
その夢の中で、娘はこちらを見なかった。
いつも、誰か別の場所を見て走っていた。
今でも考える。
あの事故は防がれたのか、それとも一度起きたものをなぞり直しただけなのか。
彼女が見ていた夢と、俺が見ていた夢は、本当に同じものだったのか。
娘が成長するにつれ、彼女は時折、娘を見つめながら言う。
「まだ先は長いね」
何が先なのか、聞いたことはない。
夜中、ふと目が覚めると、寝室の隅で彼女がリュックを開いていることがある。
中身はいつも同じだ。ガーゼ、包帯、カイロ。
理由を聞くと、必ずこう答える。
「念のため」
俺はそれ以上、何も聞かない。
ただ最近、ひとつだけ気づいたことがある。
俺が子供の頃に見ていたあの夢には、事故の後の場面がなかった。
助かったのかどうか。
誰が生き残ったのか。
そこだけが、いつも空白のままだった。
[出典:676 :本当にあった怖い名無し:2019/03/23(土) 16:28:10.39 ID:zzIxWD7h0.net]