僕が大学生だった頃の、あるバーの常連客の話。
小松さんという客がいた。二十代後半の会社員で、僕と同じ茨城出身という共通点があったことから、自然と話す機会が多かった。彼はよくそのバーに顔を出しては、軽く飲みながら雑談を楽しむ、そんな人だった。
ちょうど今の季節、蛍の話題が出たとき、小松さんはこう言った。
「俺の実家の近くじゃ蛍なんて全然見れないんだよな。いいなぁ、蛍。見てえなぁ」
僕は地元の様子を思い浮かべながら答えた。
「僕の地元なら、二、三年前まではたくさんいましたよ」
その会話から一月ほど経った頃、久しぶりに店に来た小松さんが、他の客が引けたタイミングを見計らって僕とマスターに話しかけてきた。
「笑ってくれてもいいんだけどさ……」
そう前置きしてから、淡々と語り始めた。
夏期休暇で実家に帰省した彼は、蛍がどうしても見たくなったらしい。同じ茨城とはいえ、彼の実家と僕の地元はかなり離れていたため、知り合いに教えてもらった蛍が見られる場所に車で向かったそうだ。山のふもとの農村地帯。そこは民家がぽつりぽつりと点在する、静かな場所だった。
月明かりもほとんどない夜、蛍は本当にいた。ふわりふわりと、いくつも飛び交う様子が幻想的だったらしい。小松さんは民家から離れた山沿いの野道に車を停め、家から持参したビールを片手に蛍を眺めていた。どこか風流だな、と悦に入りながら。
しかし、ビールの酔いが回った小松さんは、そのまま車内でうたた寝をしてしまう。目を覚ましたのは尿意を感じたからだった。時計を見ると、時はすっかり夜更け。彼は車を降りて用を足した後、せっかくだから蛍を捕まえて帰ろうと思い立つ。
野道を少し進むと、左手には田んぼ、右手には山へと続く雑木林が広がっていた。蛍の光を追いかけていた小松さんは、ふと雑木林の中に続く細い小道に気づいた。その奥がわずかに見えるところで、何かがふらりと動いた気がした。
「???」
暗闇に目を凝らす。月明かりの下、林の奥はなお暗い。彼は何が見えたのかを確かめようとしたが、それより先に恐怖が全身を支配した。
「ヤバイ……これ、ヤバイ……!」
確かに、見えた。雑木林の奥で揺れ動く人影のようなものが。寒気が走り、全身に鳥肌が立つ。動きたいのに動けない。足が重くてどうにもならない中で、目だけがその影に釘付けになった。
ぼろ布のようなものをまとった、人のようなもの。それがふらり、ふらりと揺れながら近づいてくる。足を必死に動かして車に戻ろうとするが、まるで水の中にいるように重い。振り返る勇気はなかった。
だがそれは、雑木林から出てきた。
距離が縮まる。それは昔の狩衣のようなぼろぼろの衣をまとい、顔には木の面をつけていた。面には何も彫られておらず、目の部分には穴すらあいていない。その面が縄でぐるぐる巻きに縛られていた。人間なら前が見えるはずもないのに、それは正確に小松さんの方に向かって歩いてきた。
「いやだ……いやだ……いやだ!」
小松さんは何とか車に飛び乗った。エンジンをかけっぱなしだった車をバックさせ、林に突っ込みそうになりながらも全速力でその場を離れた。叫びたくても声が出ず、ただ頭の中で「いやだいやだいやだ」と繰り返しながら、無我夢中で逃げ帰ったという。
その話を聞いた僕もマスターも、軽々しく笑い飛ばすことはできなかった。むしろ、ぞっとして身震いしたくらいだ。小松さん自身も、さすがに怯えてはいない様子だったが、それ以来、どこか慎重になったようだった。
「電気をつけたまま外出するようになったよ。帰ってドアを開けたとき、そこにいるんじゃないかって思ってさ」
あれから小松さんが再びそれを見たという話は聞いていない――少なくとも、僕の知る限りでは。
(了)