これは私が学生時代、とある総合病院の厨房でアルバイトをしていた頃の話だ。
当時、私が親しくしていた同僚のTという男がいた。彼は私よりも少し年上で、真面目だがどこか線の細い、神経質そうな男だった。
この話は、Tが体験し、そして私がその結末を目撃してしまった、ある一夜の出来事である。
私はこの話を、彼本人には決して伝えていない。伝えることで、彼の中でようやく沈殿しかけている恐怖が、再び形を持って暴れだすことを恐れているからだ。
舞台となったのは、県内でも有数の規模を誇る総合病院の地下階である。
一般的に病院という場所は、清潔で機能的な空間だと思われがちだが、それは患者や面会人が立ち入るエリアに限った話だ。
我々スタッフ、それも厨房のような裏方が行き来する地下エリアは、まるで別の生き物の内臓のような様相を呈していた。
天井を這う無数の配管、剥き出しのコンクリート、常に低く唸りを上げている空調の機械音。
そして何より、そこには独特の「配置」があった。
地下の廊下を挟んで、我々が働く厨房がある。その正面には小さな売店と、自動販売機が並ぶ休憩スペース。
そして厨房の右隣、厚い防火扉の向こうには、霊安室があった。
食という「生」を扱う場所と、すべての機能が停止した「死」を安置する場所が、薄い壁一枚で接している。
設計上の都合と言えばそれまでだが、深夜の静寂の中でその事実に思いを馳せると、えも言われぬ圧迫感があった。
その日、Tは「早番」のシフトに入っていた。
早番といっても、名ばかりの朝ではない。出勤時間は午前三時。
世間では「草木も眠る丑三つ時」と呼ばれる時間帯に、彼は一人で厨房に入り、数百人分の朝食の仕込みを始めなければならない。
巨大な回転釜に水を張り、米を研ぎ、野菜の下処理をする。
広大な厨房に一人きり。響くのは自分の足音と、業務用の冷蔵庫が時折発するファンが回る音だけ。
真上の一階には救急救命センターがあり、時折、遠くからサイレンの音が微かに響いてくることはあるが、それはあくまで別世界の出来事のように感じられる。
地下は、外界から隔絶された真空地帯のような静けさに満ちていた。
その夜の三時半頃のことだ。
一通りの準備を終え、釜の火加減を見るだけの状態になったTは、ふと強烈な疲労と眠気を感じたという。
張り詰めていた神経が、単調な作業の中でふっと緩む瞬間。
彼は一服しようと考えた。
厨房を出てすぐの廊下にある喫煙所へ向かうには、あの霊安室の前を通らなければならない。
普段なら何とも思わないその距離が、その夜に限って妙に長く感じられたと、後に彼は語っていた。
廊下の蛍光灯は間引きされており、薄暗い。
足元のリノリウムは、昼間の清掃で使われたワックスの匂いがまだ残っており、それがどこか古い血の匂いに似ているような気がして、Tは無意識に息を止めた。
「……コーヒーでも飲むか」
独り言を漏らし、彼は自らの声を鼓膜で確認することで、僅かな安心感を得ようとした。
売店の横に設置された自動販売機。
その人工的な白い光だけが、深海のダイビングベルのように周囲の闇を押し返している。
彼は小銭を取り出し、ブラックコーヒーのボタンを押した。
ガコン、という落下音が、静まり返った地下廊下に過剰なほど大きく響き渡る。
缶を取り出し、プルタブに指をかけた、その時だった。
「ねぇ」
背後から、声がした。
男とも女ともつかない、まるで乾いた落ち葉を踏みしめたような、掠れた音だった。
Tの背筋に、氷水を流し込まれたような衝撃が走った。
こんな時間に、こんな場所に、人がいるはずがない。
警備員の巡回時間は過ぎているし、当直の医師や看護師がわざわざ地下の自販機まで降りてくることは稀だ。彼らは上の階のスタッフルームにあるサーバーを使う。
何より、気配がなかった。
誰かが歩いて近づいてくる靴音も、衣擦れの音も、呼吸の気配さえも、今の今まで全く感じなかったのだ。
Tは缶コーヒーを握りしめたまま、身体が石膏で固められたように動けなくなった。
空調の音が、やけに遠く聞こえる。
自分の心臓の音だけが、耳元で警鐘のように早鐘を打っている。
「ねぇ、ねぇ」
再び、声がした。
今度はさっきよりも近く、そして明確に、言葉としての輪郭を帯びていた。
若い女性の声だ。
しかし、その響きには生気が欠落していた。抑揚がなく、ただ音波として空気を振動させているだけの無機質な響き。
逃げ出したいという衝動が全身を駆け巡ったが、足が竦んで一歩も動けない。
(振り向いてはいけない)
本能がそう警告していた。
だが、人間というのは極限の恐怖に晒された時、その正体を確かめずにはいられない生き物なのだろうか。
あるいは、背後を取り続けられることへの生理的な拒絶が勝ったのか。
Tは、錆びついた蝶番のようなぎこちない動作で、ゆっくりと首を後ろへ巡らせた。
Tの視界に飛び込んできたのは、予想していた幽霊でも、怪物でもなかった。
そこに立っていたのは、一人の若い女性だった。
年齢は二十代半ばだろうか。小柄で、華奢な体つきをしている。
だが、Tの思考は「女性がいる」という認識の直後、あまりにも異様な視覚情報によって完全に停止した。
彼女は、直視に耐えない姿をしていた。
着ているはずのパジャマか私服か分からない衣服は、元の色が判別できないほどに赤黒く染まり、所々が引き裂かれている。
そして何より異常だったのは、頭部だ。
側頭部から前頭部にかけてが、まるで熟れた果実を硬い地面に叩きつけたかのように、ぐしゃりと陥没していた。
髪の毛は粘着質な液体で濡れそぼり、額にべったりと張り付いている。
本来ならば頭蓋があるべき場所が歪み、皮膚がめくれ、その奥にあるべきでない色彩が、自販機の白い光を受けて生々しく濡れ光っていた。
「ひっ……」
Tの喉から、空気が漏れるような音が鳴った。
腰が抜け、その場にへたり込む。
手から滑り落ちた缶コーヒーが、コロコロと乾いた音を立てて転がっていったが、その音さえも遠い世界の出来事のようだった。
目の前の存在は、明らかに「致命傷」を負っている。
医学的な知識などないTでさえ、それが生命活動を維持できる状態ではないことは直感的に理解できた。
しかし、彼女は立っていた。
ふらり、ふらりと、糸の切れた操り人形のように上半身を揺らしながら、それでも重力に逆らって二本の足で立っているのだ。
彼女の虚ろな瞳が、Tを捉えていた。
焦点が合っているのかどうかも定かではない。白目の部分が濁り、瞳孔が開いたまま固定されているように見える。
彼女の唇が、微かに動いた。
薄紫に変色した唇の端から、赤い泡がぷくりと溢れる。
「……コは、どこですか」
聞き取れないほどの、か細い呟き。
Tは恐怖で全身を震わせながらも、その言葉を聞き逃すまいと、必死に耳をそばだてた。
理解したいのではない。理解しなければ殺されるかもしれないという、生物としての防衛本能だった。
「……バコは、どこですか」
彼女は繰り返す。
壊れたレコードのように。意味の欠落した呪文のように。
Tはガチガチと鳴る歯を噛み締め、勇気を振り絞って問い返した。
「な、何ですか……?」
その問いかけに、彼女の首がコクリと傾いた。
骨が軋むような、嫌な音が微かに聞こえた気がした。
「タバコは、どこですか」
その瞬間、Tの中にあった恐怖の種類が、少しだけ変質した。
タバコ。
これほどの怪我を負い、頭部が砕け、全身から血を流しているというのに、彼女が求めているのは救助でも水でもなく、タバコだというのか。
そのあまりに日常的な、しかし状況と乖離した欲求が、逆に現実感を喪失させた。
彼女は幽霊ではない。実体を持った、とてつもなく執着心の強い「何か」だ。
あるいは、痛みすら感じないほどに脳が麻痺し、生前の、あるいは受傷直前の最後の思考だけがループしているのか。
Tが返答に窮していると、不意に遠くから激しい足音が響いてきた。
複数の人間が、全速力で駆けてくる音だ。
地下の静寂が破られる。
「藤田さん!!」
緊迫した叫び声と共に、白衣を着た医師と、数名の看護師が廊下の角を曲がって飛び込んできた。
彼らの形相は鬼気迫るものだった。
医師の一人が、Tの前に立ち尽くす彼女の背後から回り込み、躊躇なくその身体を抱き留める。
「勝手にいなくなったらダメでしょ! 戻りますよ!」
看護師が叫ぶように言いながら、彼女の腕を掴む。
彼女──藤田と呼ばれた女性──は、医師たちに拘束されてもなお、抵抗する様子もなく、ただTの方を見つめていた。
いや、Tの背後にある自販機の光を、あるいは虚空を見つめていたのかもしれない。
「タバコ……」
まだ呟いている。
医師たちは手際よく、しかし乱暴とも言える強引さで彼女をストレッチャーに乗せようとした。
その時、Tは見てしまった。
医師の腕の中でぐらりと揺れた彼女の頭部が、あり得ない角度でカクンと折れ曲がるのを。
まるで首の筋肉が、頭の重さを支えることを放棄したかのように。
嵐のように彼らは去っていった。
エレベーターホールの方へ消えていくストレッチャーの車輪の音と、看護師たちの怒号に近い指示の声だけが、残響として残された。
Tはしばらくの間、冷たい床に座り込んだまま動けなかった。
転がった缶コーヒーのプルタブが開いていないことだけが、ここが現実であることを示していた。
あとで聞いた話だが、彼女は数十分前に交通事故で救急搬送された患者だったという。
頭部を激しく損傷し、意識不明の重体として運び込まれた。
しかし、処置の準備のために医師が一瞬目を離した隙に、彼女はむくりと起き上がり、ふらふらと病室を抜け出したのだそうだ。
救急病棟のある一階から、わざわざ階段を使って、地下まで降りてきたことになる。
瀕死の重傷を負った人間が、タバコ一本を求めて。
「本当に怖いことがあった時、人間って声が出ないんだな」
その日の早朝、出勤してきた私に、Tは青ざめた顔でそう語った。
震える手でタバコに火をつけようとして、何度もライターを落としていた彼の姿を、私は今でも鮮明に覚えている。
彼は「生きた人間が一番怖い」と笑おうとしたが、その顔は引きつっていた。
だが、この話には続きがある。
そしてその続きこそが、私がTに決して口外できない理由なのだ。
Tからその話を聞かされたのは、午前五時を過ぎた頃だった。
厨房には他のスタッフも出勤し始め、ようやく活気が戻りつつあった。
Tは「少し休んでくる」と言って、仮眠室へ向かった。
あの体験の後で、まともに仕事ができる精神状態ではなかったのだろう。
私は彼の担当分を引き継ぎ、野菜の皮むきを黙々とこなしていた。
それから二時間ほど経った、午前七時過ぎのことだ。
朝食の配膳準備がピークを迎え、私は不足した食材を取りに行くため、再びあの廊下へと出た。
朝の光が地上には満ちている時間だが、地下には関係ない。
相変わらず陰鬱な蛍光灯の光が、廊下を白々しく照らしていた。
ふと、霊安室の方から人の気配がした。
私は足を止めた。
Tの話を聞いた直後だっただけに、過敏になっていたのかもしれない。
防火扉が開き、ストレッチャーが押し出されてくるところだった。
その上に横たえられているのは、白い布で覆われた遺体だ。
布の起伏から、それが小柄な人物であることが見て取れた。
ストレッチャーの傍らには、母親らしき中年の女性が縋り付くようにして歩いていた。
彼女は泣き崩れそうになる体を、付き添いの看護師に支えられながら、半狂乱で叫んでいた。
「美恵ちゃん! 美恵ちゃん! お願い、目を覚まして!」
悲痛な叫び声が、廊下に反響する。
私は壁際に身を寄せ、その行列が通り過ぎるのを待った。
通り過ぎざま、母親の泣き声の合間に、看護師同士が低い声で交わす会話が耳に入ってきた。
「……発見が遅れたのが悔やまれますね」
「ええ。まさかボイラー室の裏で倒れていたなんて」
私は耳を疑った。
ボイラー室の裏?
先ほどTが話していた内容とは食い違う。
Tの話では、彼女は医師たちに確保され、連れ戻されたはずだ。
看護師たちの会話は続く。
「当直の先生も真っ青でしたよ。搬送直後にいなくなって、二時間近くも見つからなかったなんて。見つかった時にはもう、冷たくなっていて……」
「死後硬直も始まっていたって聞きましたけど」
「ええ。検死の結果だと、即死に近かったはずなのに、どうやってあそこまで移動したのか……」
私の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
即死に近い状態で、二時間近く見つからなかった?
Tが彼女に遭遇したのは三時半頃。
今、遺体が運ばれていくのが七時。
計算が合わない。
もし彼女が搬送直後(恐らく三時頃)に姿を消し、ボイラー室の裏で冷たくなっていたのなら、Tが出会った三時半の時点で、彼女は既に……。
いや、もっと恐ろしい可能性に気づいてしまった。
医師たちが連れ戻したあの「藤田さん」は、本当に生きていたのだろうか。
Tが見た「首がカクンと折れ曲がる」光景。
看護師たちの会話にある「死後硬直」という言葉。
私はハッとして、通り過ぎていくストレッチャーを目で追った。
白い布の隙間から、ほんの少しだけ、遺体の手が見えていた。
その指先は、どす黒く変色し、固く握りしめられていた。
まるで、何かを掴もうとしていたかのように。
その時、母親の絶叫が私の思考を貫いた。
「タバコなんか買いに行かせなければよかった! 私が、私があの子にタバコを頼んだりしなければ!!」
私の背筋に、冷たいものが走った。
彼女が求めていたのは、自分のためではなかったのだ。
母親に頼まれたタバコ。
それを届けるために、彼女は頭を割られたまま、身体機能が停止したまま、執念だけでこの地下を彷徨っていたのではないか。
そして、Tに問いかけたのだ。
「タバコはどこですか」と。
Tは今でも信じている。
自分が遭遇したのは、事故のショックで徘徊してしまった、運の悪い「生きた患者」だったと。
だからこそ、「怖い体験」として他人に語ることができるのだ。
もし彼が知ってしまったら。
自分が言葉を交わした相手が、医学的には既に死亡していたはずの肉体であり、その肉体を動かしていたのが、ただ一つの「届け物」への未練だったとしたら。
そして、医師たちが連れ去ったのが、治療のためではなく、ただの「回収」だったとしたら。
私は厨房に戻り、震える手で包丁を握り直した。
地下の換気扇が、低い唸り声を上げている。
その音が、まるで「ねぇ」という掠れた呼び声のように聞こえて、私は強く唇を噛み締めた。
Tが起きてきても、私は何も言わないつもりだ。
彼が二度と、あの自販機の前で足を止めなくて済むように。
(了)
[出典:528 :本当にあった怖い名無し:2015/09/16(水) 23:59:09.51 ID:+Vo9nNhI0.net]