山形の内陸、雪に閉ざされる町に、最後のオナカマがいると言われていた。
「もうやめたはずだ」と皆が言う。だが、人が死ぬと、夜中にだけ灯りがともる家がある。呼ばれた家族しか、その戸を叩けない。
祖母が亡くなった冬、母は眠らなかった。葬儀が終わっても、何度も同じ言葉を繰り返した。「まだ何かあるはずだ」と。
私は止めた。死んだ人間が喋るはずがない。だが母は、雪の上に足跡をつけて歩いた。
町外れの古い家だった。表札はない。戸を開けると、畳の部屋に火鉢がひとつ。白髪の女が奥に座っていた。皺は深いが、目は澄んでいる。
「誰を呼ぶ」
母が祖母の名を告げると、女は頷いた。
鈴が一度鳴る。女は目を閉じる。呼吸が浅くなり、やがて背筋が反る。
低い声が、喉からこぼれた。
「……寒い」
祖母の口癖だった。母が泣き出す。
「畑の道具は、納屋の奥だ」
母が何度も頷く。私は動かなかった。祖母は生前、納屋の話をしていたのだろう。母が口にしたのかもしれない。そう考えた。
次の瞬間、女の顔がこちらを向いた。目は閉じたままだ。
「見ていたな」
胸がひやりとした。
「川の堤で」
それ以上は言わなかった。
小学生のころ、堤防でふざけた。背中に触れた記憶がある。祖母は転んだ。膝を打った。私は何も言わなかった。
女の喉が引きつり、声が途切れる。
「来ている」
線香の煙が、天井へ上がらず、床へ沈んだ。火鉢の灰が舞い、女の体が崩れ落ちる。
しばらくして、女は目を開いた。
「今のは、呼んだ人ではない」
母が息を呑む。
「呼ばれれば、来る。だが、呼ばれなくても、来るものがある」
女は私を見た。
「戸を叩いたのは、誰だ」
その夜、私は何も答えられなかった。
翌日、母は納屋の奥から農具を見つけた。祖母は生前、場所を伝えていたという。私は聞いていなかっただけらしい。
数日後、オナカマは倒れた。あの日以来、口寄せはしていないという。
それでも、夜になると、あの家の戸を叩く音がするという話がある。雪のない夜でも、濡れた足跡が残るという。
私はまだ夢を見る。堤防の上。背中に触れた自分の手。振り向く前の、祖母のうなじ。
あのとき、押したのかどうか、思い出せない。
ときどき、部屋の戸が鳴る。
私は開けない。
開けなくても、誰かは入ってくる。
呼んでいないのに。
[出典:志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]