この話を聞かせてくれた知人は、長野の山奥にある小さな集落で育った。
酒の席でも、旅先の雑談でもなかった。仕事の帰りに駅前の喫茶店で偶然会い、雨宿りのついでに入った店で、なぜか山の話になった。こちらが「子供のころ、川遊びなんかしたんですか」と何気なく聞くと、彼はしばらく黙った。
それから、窓の外を見たまま言った。
「川はあったよ。浅くて、子供にはちょうどよかった。ただ、あそこでは、息の音だけは真似しちゃいけないって言われてた」
笑い話の調子ではなかった。
彼が小学生だったころ、集落の子供たちは夏になると山裾の川へ集まった。膝までしかない浅い流れで、石をひっくり返してザリガニを捕る。竹竿の先に糸を結び、スルメを垂らしては、赤いハサミが引っかかるのを待つ。大人たちも川で遊ぶこと自体は止めなかった。ただ、山側の田んぼには入るな、夕方の鐘が鳴る前に帰れ、妙な息の音がしたら振り返るな、と何度も言われていた。
子供にとっては、そういう決まりごとは半分くらい怪談だった。
その日も、昼を少し過ぎたころから何人かで川にいた。空はよく晴れていて、山の緑がぎらつくほど濃かった。水は冷たく、石の裏からは小さな虫や泥が舞い上がった。彼らは捕まえたザリガニを並べ、どれが一番強いかで騒いでいた。
最初に異変に気づいたのは彼だった。
田んぼの向こう、山へ続く細い道のあたりに、赤茶けたものが揺れていた。最初は犬だと思った。集落では飼い犬を放している家もあり、山道を歩いていて犬と鉢合わせることは珍しくなかった。
ただ、その犬は歩き方がおかしかった。
四つ足で進んでいるように見えるのに、体の上下が合っていなかった。頭が先に揺れ、胴が少し遅れてついてくる。足音は聞こえないのに、湿った息だけがこちらへ届いた。
フッ、フッ。
犬が暑さで舌を出している音にも聞こえた。けれど、それにしては間隔が人間じみていた。苦しそうで、焦っていて、こちらに何かを言いかけているようでもあった。
一緒にいた子が、「犬じゃねえ」と小さく言った。
その一言で、遊んでいた全員が黙った。
赤茶けたものは、畦の上をこちらへ向かっていた。近づいているはずなのに、田んぼの稲は揺れなかった。水面にも影が落ちなかった。けれど息の音だけは、さっきより近い。
フッ、フッ。
誰かが「逃げろ」と叫んだ。
子供たちは一斉に川から上がった。裸足のまま石を踏み、網や竹竿を放り出して走った。彼も走った。後ろは見なかった。見てはいけないと思ったわけではなく、見たら何がいるのか決まってしまう気がしたという。
だが、集落へ戻る道の途中で、前から修という男が来た。
修は林業をしている大人で、普段から山に入っていた。腰に鉈を下げ、肩には丸めた縄を掛けていた。子供たちを見るなり顔色を変えたが、叫びはしなかった。ただ、彼らの後ろを一度だけ見た。
それから低い声で言った。
「おまえら、誰か息を真似たか」
誰も答えられなかった。
修はさらに顔をこわばらせ、「声に出してないな」と確認するように言った。子供たちは首を振った。すると修は、来た道へは戻らず、道端の草むらへ子供たちを押し込むようにしてしゃがませた。
「目を閉じろ。口も開けるな」
そう言って、自分だけ道の真ん中に立った。
彼は目を閉じきれなかった。まぶたの隙間から、修の足元だけが見えていた。日差しに焼けた土の道。その向こうから、何かが近づいてくる。
足音はなかった。
代わりに、あの息が聞こえた。
フッ、フッ。
今度ははっきりと、犬の息ではなかった。人間が耳元で息を吐いているような湿った音だった。しかも、前から来ているはずなのに、音は子供たちの背中側からもした。
フッ、フッ。
修が鉈を抜いた音がした。
だが、振り下ろす音は聞こえなかった。
しばらくして、修が小さく言った。
「行った」
子供たちは目を開けた。
道には何もいなかった。赤茶けた犬も、山の影も、足跡もなかった。ただ、修の右腕から血が流れていた。手首のあたりに細い傷が何本も走り、皮膚がめくれていた。子供のひとりが泣き出すと、修はものすごい目で睨んだ。
「泣くな。声を出すな。すぐ寺へ行く」
そのまま全員、集落の寺へ連れていかれた。
住職は事情を聞く前から本堂に火鉢を出していた。子供たちは一人ずつ座らされ、何を見たかではなく、何を聞いたかを聞かれた。
赤い犬がいた、と言いかけた子は、途中で止められた。
「形は言わんでいい。息だけ言え」
そう言われた。
誰かが、フッ、と口でやりかけた瞬間、住職は畳を叩いた。
「真似るな」
本堂が静まり返った。
住職はお札を焼き、その煙を子供たちの頭から肩へかけた。修にも同じように煙をかけたが、修の腕の傷だけは最後まで煙を避けるように濡れていた。血はそれほど出ていないのに、傷口から泥水のようなものが滲んでいたという。
その夜、彼の家には大人たちが何人も集まった。子供は奥の部屋で寝かされたが、襖の向こうから話し声が聞こえた。
「また出たのか」
「犬だったらしい」
「犬とは限らん」
「昔は違った」
「名前を出すな」
低い声が何度も重なった。
その中で、修が一度だけ言った。
「ヒサルだ」
その言葉が出た瞬間、大人たちは黙った。
彼は布団の中で、その名を頭の中で繰り返した。ヒサル。ヒサル。意味はわからなかった。漢字も知らなかった。ただ、口に出してはいけない名だということだけは、子供にもわかった。
翌朝、川に置いてきた網や竹竿を取りに行くことになった。もちろん子供だけでは行かせてもらえず、大人たちが数人ついてきた。川はいつも通りだった。水は浅く、石の裏にはザリガニがいた。前の日に騒いでいた場所には、彼らの足跡が残っていた。
だが、田んぼの畦に沿って、丸い跡が点々とついていた。
犬の足跡ではなかった。猿の手形にも見えなかった。小さな子供が拳を握ったまま、泥に押しつけて歩いたような跡だった。その跡は山側から川へ向かって来て、川には入らず、子供たちが逃げた道をたどっていた。
そして、修が立っていたあたりで消えていた。
誰も何も言わなかった。
その日から、彼らは川へ行かなくなった。少なくとも、夕方に近い時間は避けるようになった。山から変な音がしても、誰もその音を口で真似なかった。真似ると寄ってくる、と言われたわけではない。言われなくても、そういうものだと全員が理解していた。
それから何年かのあいだ、集落では山の事故が続いた。
木を伐りに入った男が斜面から落ちた。猟に出た老人が、犬だけ戻して本人は帰らなかった。山菜採りに行った女が、夕方になっても見つからず、三日目に沢の下で発見された。どの話にも、あとから必ず同じ言葉がついた。
「あの前に、息が聞こえたらしい」
フッ、フッ。
誰も実際に聞いたとは言わなかった。ただ、「聞いた者がいるらしい」とだけ伝わった。誰が聞いたのかは、いつも曖昧だった。だが、その曖昧さのせいで、かえって消えなかった。
知人は大人になってから集落を出た。
それでも、風の強い夜に木の枝が擦れる音を聞くと、あの息が混じることがあるという。最初は遠い。山の奥で誰かが走っているように聞こえる。次に、家の外を回っているように聞こえる。そして最後には、自分の口の中から聞こえる気がする。
「だから俺は、あの音を口でやらない」
彼はそう言って、コーヒーに手を伸ばした。
そのとき、私はつい聞いてしまった。
「ヒサルって、どう書くんですか」
彼は手を止めた。
それまでずっと窓の外を見ていた目が、初めてこちらを向いた。怒っているわけではなかった。だが、ひどく疲れた顔だった。
「字はない。書いちゃいけないんじゃなくて、書けないんだと思う。あれは、名前じゃない。たぶん、聞こえた音に近いものを、人がそう呼んでるだけだ」
そのあと、彼はしばらく黙り、低い声で続けた。
「だから、読むときも気をつけた方がいい。頭の中で息を作るだろ。あれが一番よくない」
その話を聞いてから、私は録音していた会話を文字に起こした。
念のため言っておくが、彼は一度も息の音を真似ていない。私もその場では真似ていない。録音にも、人の声以外は入っていないはずだった。
だが、文字起こしの途中で、何度も同じところで手が止まった。
川の場面。田んぼの向こうから赤いものが近づく場面。修が「目を閉じろ」と言った場面。
そこだけ、イヤホンの奥で小さく混じる。
フッ、フッ。
音量を上げると聞こえない。戻して聞くと、またある。機械のノイズだと言われれば、そうかもしれない。自分の呼吸だと言われれば、それも否定できない。
ただ、その音を聞くたび、画面の文字が一瞬だけ別のものに見える。
ヒサル。
変換候補にも出ない。入力した覚えもない。それなのに、気づくとそこにある。
だから、この話を読むなら、ひとつだけ気をつけてほしい。
あの息を、頭の中で形にしない方がいい。
(了)