この話を耳にしたのは、山深い長野の集落に暮らす知人の口からだった。
彼の声色は冗談めかすことなく、むしろ吐き出すたびに肺の奥から冷たい風が漏れ出すような調子で、私は黙って頷くしかなかった。
彼がまだ小学生だった頃の記憶だという。山裾を流れる浅い川は、村の子供たちの格好の遊び場だった。夏の盛りになると皆が網や竹の竿を手に集まり、川底の石をひっくり返しては赤いハサミを振りかざすザリガニを捕まえて遊んだ。互いに戦わせては歓声を上げる――そんな牧歌的な時間の最中に、それは姿を現したのだ。
最初に気づいたのは彼自身だったという。川辺から少し離れた田んぼの向こう、ゆらゆらと不規則に揺れる赤茶の影。犬のように見えたが、近づくにつれ違和感が募った。毛並みはまるで泥と血で染め抜かれたように濁り、開きっぱなしの口からは黒ずんだ舌がだらりと垂れ、荒い息が「フッ、フッ」と湿った音を立てていた。骨の露わになった足を引きずり、まるで道を探すように蛇行しながらこちらへ進んでくる。
誰も声を出さなかった。ひとりが小さく「山犬だ、逃げろ」と叫んだのを合図に、群れは蜘蛛の子を散らすように駆け出した。しかし振り返れば、その異形は方向を変え、白骨を突き出した足で一歩、また一歩と追ってくる。速度は遅いのに、距離が縮まっていくような錯覚が背筋を這い上がった。
その時だ。山を揺るがすような怒声。「おい、早く逃げぇ!」振り向くと、林業を営む修という男が鉈を手に突進してきた。鬼気迫る形相で刃を振りかざすと、血塗れの犬は狂ったように旋回を始めた。むき出しの肉、剥がれ落ちかけた耳、潰れた黒い眼窩、腹から垂れる内臓の塊……それらが回転とともに視界を切り裂き、子供たちは声も出せずに立ち尽くした。
修が怒鳴る。「早く大人を呼んでこい!」その言葉でようやく正気に戻った彼らは、泣きながら村へ駆け戻った。やがて大人たちが松明を手に集まり、山犬もどきを取り囲んだ。火がつけられ、焦げた毛と肉の悪臭が鼻腔を侵した。煙が夜空に立ち昇り、子供たちは吐き気に耐えきれず次々と胃の中を吐き出した。
その夕刻、子供たちは寺へと連れて行かれた。僧侶は警察の取り調べのように一人一人から状況を聞き出し、最後にお札を焼いて煙を浴びせた。「お前らが見たのは“ヒサル”だ」修が包帯を巻いた腕で煙を払いつつ、そう言った。
僧侶の話では、ヒサルとはもともと猿に憑く妖の類だという。しかし近年猿が減ったため、犬に宿るようになったらしい。その正体を示す文字も伝わらず、記録もなく、ただ“ヒサル”と呼ばれるだけの存在。村人たちはその名を口にするのを忌み、代わりに「赤犬」「血犬」と囁き合った。
それ以来、森で不可解な事故や猟奇的な死が起きると、必ず「フッ、フッ」という息遣いを聞いた者がいるのだと噂された。木こりが崖から転落した夜、猟師が無惨に獣と共に裂かれていた朝、あるいは山菜採りが行方不明になった昼――必ずどこかでその音が漂ったという。
彼は最後にこう言った。「今でも、風の強い晩に裏山の杉の枝がざわめくと、あの“フッ、フッ”が紛れ込んでいる気がする。あれは犬の声じゃない。猿でもない。人間が息を荒らすような、湿った音だ。山に近づくほど強く聞こえて、振り返っても何もいない。俺はあれ以来、夜の川には二度と近づけない」
赤犬ヒサル――文字に起こせぬ存在の名だけが残り、今も森の暗がりに潜んでいる。