これは、長野の山奥に住む知人から聞いた話だ。
小学校の頃、村の子供たちはよく川でザリガニ採りをしていた。彼もその中の一人で、仲間たちと夢中になって川べりでザリガニの決闘に興じていた。だが、ふと山の方を見ると、赤っぽい犬がふらふらと田んぼを横切ってこちらに近づいてきたという。
子供たちが顔を見合わせていると、その犬の異様な様子が見て取れた。白い毛は血に染まり、体じゅうの傷から血が滴り落ちている。口は開きっぱなしで、黒っぽい舌が垂れ下がり、荒い息が「フッ、フッ」と響く。骨がむき出しの足を引きずりながら、迷うようにジグザグとこちらに向かって歩いてくるのが不気味で、誰も声を出せなかった。
「おい、あれ、山犬だろ?逃げようぜ!」
仲間の一人が小声で叫ぶと、みんな一斉に逃げ出した。だが、振り返ると、その血だらけの犬はまた方向を変え、子供たちを追ってくる。骨が白く突き出した足で一歩一歩、ゆっくりと追ってくる姿に恐怖がこみ上げ、全身が震えた。
突然、耳をつんざく怒声が響いた。「おい、お前ら、早く逃げぇ!」振り返ると、林業を営む修さんが、鬼のような形相で鉈を握りしめ、血だらけの犬に向かって猛然と突進していた。
修さんが鉈を振り回すと、犬は「フッ、フッ」という荒い息を漏らしながら狂ったように辺りをぐるぐると回り始めた。骨がむき出しの肉、剥がれかけた耳、潰れた黒い目、腹からぶら下がる内臓のようなもの――あまりにも異様な姿に、子供たちは恐怖で動けず、ただ立ち尽くすばかりだった。
「何ボサッとしてる!早く大人を呼んでこい!」修さんが再び怒鳴りつけ、子供たちはようやく我に返り、村へと走り出した。
村の大人たちはすぐに集まり、やがて煙が上がった。犬は火をつけられ、あたりには焦げた毛と肉の嫌な臭いが立ちこめた。集会所に戻された子供たちは、その場で気持ち悪さと恐怖で次々と吐いた。
その日の夕方、子供たちは村の寺に連れて行かれた。坊さんはまるで警察の取り調べのように犬を見た時刻や状況を一つ一つ確かめ、最後に何やらお札を焼いて子供たちに煙をかけた。
「お前らが見たのは“ヒサル”だ」
修さんが腕に包帯を巻きながら、そう言った。坊さんによれば、あれは猿のような動物に化ける妖怪で、近頃猿が減ったため、犬に憑くようになったのだという。
“ヒサル”――それがどんな字を書くのか、どこに潜んでいるのか、今も誰も知らない。ただ、村の人々が時折噂する猟奇的な事件、森の中で聞こえる「フッ、フッ」という息遣いは、いまだ誰も説明できないままでいる。