これは、祖父が1990年代後半に体験したという出来事だ。
祖父は山間部にある、茶畑と温泉くらいしかない田舎町に住んでいる。
その日は祖父の家から少し離れた所にある茶畑で、来年に備えて枝を短く刈って置く作業をしていたんだ。
そして帰る頃、大分日が傾いていた。
急に暗くなり始めた帰り道、くねくねとした山道を軽トラで走っていた。
道路の真ん中に、何か大きな影が横たえているのが見えて、祖父は急ブレーキを踏んだ。
そこには車に撥ねられてしまったのか、鹿の死体が道路に転がっていた。
死体の腹の辺りには、小さな野犬みたいな影がごそごそと腹をほじくっている。
なんとなく気分が悪くなった祖父はクラクションを鳴らして、その野犬を追い払おうとしたんだが。
クラクションに振り返った野犬の姿に祖父は肝を冷やした。
その野犬。いや、その生き物は、頭が異常なほどに大きかった。
身体の大きさの三分の一くらいを占めるほどの大きな頭を、引きずる様にしてゆっくりとこちらを向き、車のライトで大きな顔に不似合いな小さな瞳が爛々と光って祖父の顔を見つめた。
その頭は真っ黒い毛むくじゃらの身体とは違い、所々毛が禿げていて、まるで髭を伸ばし放題にした男の顔にも見える。
怖くなった祖父は、狂ったようにクラクションを鳴らし続けた。
すると、その生き物は鹿の死体に噛み付き、ずるずると道路の端に避けると、その場に伏せ、まるでニヤニヤと笑っているかのような顔で祖父をじっと見つめ、動かなくなった。
その顔は、鹿の内臓や血に塗れていて、とても不気味だったが、これはチャンスと祖父はその脇を通り過ぎようとした。
その時、さっきまではやかましいクラクションに紛れて聴こえなかった声が聞こえた。
「アっ……アっ……おちる……おちるよぉ……」
この出来事に遭った後の帰り道、真っ暗になった山道をガタガタと車を揺らしながら走っていた祖父は、さっきの言葉を思い出し、ふと車を止めてしまった。
そして気付いた。
目の前の道路が、半分程崩れてなくなってしまっていたのだ。
それ以来、祖父はその生き物は山の神様で、危険を知らせてくれたんだと信じているらしい。
(了)