祖父は、あれを山の神様だと言っている。
だが俺は、どうしても納得できない。
話は九〇年代の終わり頃に遡る。祖父は九州の山あいの集落で茶畑を守ってきた。家の裏はすぐ斜面で、冬になれば霧が降り、犬の遠吠えも谷底から湧き上がる水音のように重く響く。日が沈めば、闇は一気に深くなる土地だ。
その日も祖父は昼過ぎから茶の木の剪定をしていた。几帳面な人間で、枝の向きや芽の付き方を一本ずつ確かめ、納得するまで刃を入れない。気づけば西の山が紫に沈み、作業を終える頃にはすっかり夕暮れだった。
軽トラに乗り込み、山道を下る。舗装はされているが道幅は狭く、ガードレールの向こうはすぐ谷だ。曲がるたびにヘッドライトが木立をなぎ払い、影が逃げる。
カーブを抜けた直後、祖父は急ブレーキを踏んだ。
道の中央に、鹿が横たわっていた。角は折れ、腹の下から赤黒いものが広がっている。まだ温かいのか、口から泡がこぼれていた。
そして、その腹に覆い被さるようにして、黒い小さな影がいた。
最初は野犬だと思ったという。山では珍しくない。だが、ライトに照らされたそれを見た瞬間、祖父は言葉を失った。
頭が異様に大きい。身体の三分の一ほどもある歪な頭部が、ずるずると地面を擦るように動く。毛むくじゃらの胴体に対し、顔だけが薄く、湿った皮膚がむき出しだった。皺が深く刻まれ、脂を引いたように光る。
中央に並ぶ、小さすぎる黒い眼。人間の赤子のような位置に、だが光を吸い込むように沈んでいる。
鼻も口も定まらない。凹みの中に、斜めに裂けたような切れ目が走っているだけだ。
祖父はクラクションを鳴らした。山に反響が走る。それでも、そいつは逃げなかった。
鹿の腹に噛みついたまま、ゆっくりと顔を上げ、車を見た。やがて死体を咥え、道の脇へ引きずる。伏せたまま、じっとこちらを見据える。
その裂け目が、ぐにゃりと上がった。
笑ったように、見えた。
祖父は躊躇いながらも車を進めた。横を通り過ぎる瞬間、視界の端で黒い塊がわずかに揺れた。
クラクションの余韻が消え、山がしんと静まった、そのとき。
車内に、声が落ちた。
「アっ……アっ……おちる……おちるよぉ……」
低く、湿った声。どこからともなく、耳の奥に直接触れるような響き。
祖父は振り返らなかった。アクセルを踏み込み、ただ前だけを見た。
数分走ったところで、なぜか急に車を停めたという。理由はわからない。ただ、違和感があった。ハンドルの重み、タイヤの振動、風の向き。何かが噛み合わない。
懐中電灯を持って降りる。数歩進んだ先で、足が止まった。
舗装道路が、途中で消えていた。
道の半分が崩れ、黒い空洞が口を開けている。下から水音がかすかに響く。ヘッドライトは、その裂け目の手前で止まっていた。
もし、あのまま走っていたら。
祖父は言う。「あれは山の神様だ。姿は妙だが、悪いもんじゃない」と。
だが俺は、そう思えない。
あれは、最初から崩落を知っていたのか。だから道を塞いでいたのか。それとも、偶然そこにいて、たまたま声を発しただけなのか。
そもそも、あの声は警告だったのか。
「おちるよぉ」
あの語尾に、祖父は優しさを感じたらしい。俺には違う。
祖父の話を聞いた夜から、同じ夢を見るようになった。鹿の腹に顔を埋める黒い塊。裂けた口がゆっくりと持ち上がる。小さな眼がこちらを捉える。
そして声がする。
「アっ……アっ……」
そこでいつも、目が覚める。
崩れた道は、今も通行止めのままだ。補修の目処は立っていない。山の麓では、もうすぐ盆の火が焚かれる。
祖父は歳を取り、あの話を穏やかな顔で語る。
だが俺は、あの笑みを思い出すたびに考えてしまう。
あれは、本当に助けたのか。
それとも――落ちる瞬間を、もっと近くで見たかっただけなのか。
(了)