あの子が死んだ。心臓発作、十三歳だった。
朝ごはんを食べて、窓辺で丸くなって、そのままだった。毛並みはつややかで、まだ温かかった。けれど、触れた瞬間にわかった。これは、もう戻らない温度だと。
泣きながら獣医に連絡し、火葬の手配をした。小さな骨壺を抱えて帰るとき、家族が言った。「違う道から帰ろう。ついてくるから」。昔からある言い伝えだ。
私は同じ道を選んだ。ついてくるなら、それでいいと思った。
帰宅したのは夕方。空は澄みすぎるほど澄んでいて、風の音がやけに大きかった。何も食べる気になれず、自室にこもった。キャットタワーに絡まった白い毛を、ひとつずつ拾い集める。柔らかくて、匂いがして、涙が止まらなかった。
気づけば床で眠っていた。時計は午前一時を少し過ぎていた。
喉が渇き、階段を降りる。玄関のほうから、風の音がした。ドアは閉まっている。それでも、確かに何かが擦れるような音が続いている。
あの子が、帰ってきたのかもしれない。
そう思ったのか、そう思わされたのかはわからない。台所から袋菓子をひとつ掴み、玄関へ戻る。ドアを静かに開けた。
何もいない。
けれど、冷たい空気だけが、家の奥まで入り込んでくる。私はそのまま、ドアを開けたまま立っていた。どれくらい経ったのか、わからない。
背後で、白いものが横切った気がした。
振り向かなかった。振り向けば、何かが確定してしまう気がしたからだ。
それでも、その夜から、視界の端に白が残るようになった。直接見ようとすると消える。けれど、ふとした瞬間、棚の下、カーテンの裾、ドアの隙間に、確かにいる。
嬉しかった。
少なくとも、最初は。
深夜、いつものようにベッドに入る。布団の中に、そっと何かが潜り込む気配があった。足元に、軽い重み。懐かしい温度。
私は目を閉じたまま、動かなかった。確かめなければ、失うこともない。
しばらくして、足首に何かが触れた。柔らかい、はずだった。
違った。
細くて、長くて、何本も絡まる感触。乾いていない。皮膚に吸いつくように貼りつく。
息が止まった。
それでも目を開けなかった。開けたら、見てしまう。見たら、私の中で何かが決まってしまう。
足元の重みが、ゆっくりと這い上がる。膝へ、腹へ、胸へ。喉のあたりで止まった。
そのとき、耳元で、息がした。
……なの?
聞き覚えのない声だった。
でも、否定できなかった。私は何に対してかもわからないまま、謝った。ごめんなさい、と繰り返した。何を選び、何を呼び、何を拒んだのかもわからないまま。
気づけば朝だった。親の寝室で目を覚ました。どうやって移動したのか覚えていない。親は「夜中にうなされていた」と言った。
自室へ戻ると、窓が少しだけ開いていた。昨夜、閉めたはずだった。
床に、白い毛が落ちている。
拾い上げると、指に絡んだ。いつもより長い。あの子の毛より、ずっと。
それ以来、白は消えない。
視界の端にいる。鏡越しにも、ガラス越しにも、光の反射の中にも。
確かめようとしなければ、そこにいる。
確かめれば、いなくなる。
あの夜、私が開けたのは玄関だけだったのか。
それとも、もっと別のものだったのか。
同じ道で帰ったことを、今でも後悔している。
けれど、本当にいけなかったのは、道だったのか。
白は、いまも視界の端にいる。
振り向かなければ、ずっと。
[出典:652 :本当にあった怖い名無し:2020/07/02(木) 01:39:54.78 ID:y0ECfhqN0.net]