その日は、湿った霧が朝から山を包んでいた。
上海郊外にある低い山で、観光客も多く、危険な場所ではないとされている。留学中の韓国人学生たちが、気晴らしに選ぶにはちょうどいい場所だった。男女合わせて十人。Aと彼氏、そして友人たち。関係性は複雑ではなく、少なくともAはそう信じていた。
だが、登山口に着いたときから、Aの体調は妙に重かった。息苦しさではない。胸の奥に薄く膜が張ったような感覚で、呼吸が現実から一歩遅れる。気のせいだと思おうとしたが、足が前に出なかった。
「先に行って」
Aはそう言った。心配する声が重なったが、彼女は麓で待つと決めた。理由を説明する気はなかった。ただ、自分が登るべきでないという感覚だけが、妙に確かだった。
九人は山へ入っていった。霧の中に、背中が一人ずつ溶けていく。最後に彼氏が振り返ったが、その顔がはっきり見えたのは、そこまでだった。
時間が過ぎるにつれ、Aは落ち着かなくなった。連絡はつかない。電波は弱いが、完全に圏外ではないはずだ。何度もスマートフォンを確認するが、既読も表示されない。
体調はいつの間にか回復していた。むしろ、何も感じなくなっていた。焦りとも不安ともつかない空白だけが残り、Aは自分が置き去りにされたという事実だけを、はっきりと意識していた。
気づけば、彼女は登山道に足を踏み入れていた。
霧は濃く、音が吸われる。鳥の声も、人の気配もない。しばらく登ったところで、下ってくる人影が見えた。女友達だった。四人。全員、無言で歩いている。
「男たちは?」
Aが声をかけると、先頭の女が立ち止まりもせずに答えた。
「上にいる」
それだけだった。表情は読めない。視線も合わない。Aは違和感を覚えたが、追いかける理由が見つからず、そのまま道を譲った。女たちは、すぐに霧の中へ消えた。
山頂は静かだった。
五人の男が、円を描くように立っていた。誰も景色を見ていない。互いの顔だけを見ている。その輪の中心には、何もない。
Aが近づくと、全員が一斉にこちらを向いた。彼氏の顔は青白く、どこか安堵したようにも見えた。
「女たちがいない」
彼が言った。説明ではなく、確認するような口調だった。
「さっき会った」
Aがそう言うと、男たちは同時に首を振った。
「それはおかしい」
誰かが言った。理由は続かなかった。ただ、全員が同じ結論に立っていることだけが伝わってきた。
探しに行こうという話は出なかった。時間の感覚がずれているようだった。Aは、自分が遅れて到着したことを後悔し始めていた。置いていかれたのは、自分ではなく、別の誰かだったのではないか。そんな考えが浮かび、すぐに消えた。
耐えきれず、Aは一人で下山を始めた。
途中、誰にも会わなかった。女たちの姿も、男たちの声もない。霧はいつの間にか晴れていたが、空の色が思い出せない。
麓に戻ったとき、売店のテレビが目に入った。登山中の遭難事故。画面には、ぼかされた遺体と、見慣れた服の断片が映っていた。
女性四名、男性五名。
名前が読み上げられる。Aの知っている名前ばかりだった。彼氏の名前もあった。
その中に、自分の名前はなかった。
安堵よりも先に、別の違和感が込み上げた。十人だったはずだ。画面の数字は九人。誰が数えられていないのか。アナウンサーは淡々と次のニュースに移った。
Aは、そのまま動けなかった。
山で会った彼らは、何を確認していたのか。下っていった女たちは、どこへ向かっていたのか。なぜ、自分だけが麓に戻れたのか。
その答えは、どれも決められない。
ただ一つ確かなのは、Aはその日、確かに九人と会話をしたという記憶を持っていることだ。そして、その記憶の中に、自分の居場所がないということだった。
[626 本当にあった怖い名無し 2011/09/24(土) 10:56:23.55 ID:GN9ksJje0]