あれは伊藤の家で宅飲みをしていた晩のことだ。
やたらとオカルトに詳しい伊藤が「怪談大会やろうぜ」と言い出したんで、互いの知ってる話を披露し合っていた。伊藤は順番が回ってきたときに、こんなふうに切り出した。
「これは俺の知り合いから聞いた作り話なんだけどさ……」
俺はそのとき、ただの余興として聞き流していた。けど、いま思えば、あれは伊藤の話だったんじゃないかと、ずっと思っている。
――
その子は、とある県の山奥、周囲に集落すらないような寂れた場所にある大きな家で育ったらしい。周囲には柿の木と竹やぶが生い茂り、春は泥のように生臭く、冬は風の音が獣の鳴き声に聞こえるような土地。屋敷は黒光りする梁と藁葺きの一部が残されたままで、土間の匂いが身体の芯まで染みついてしまうような造りだった。
家には、祖父、父、母、姉、自分の五人がいた。それに女中が三人。隣に住む分家の男たちも、毎日祖父のそばにへばりつくように居座っていた。祖父はその家の絶対者だった。あの家では、祖父の前で椅子を引く音すら許されなかった。父も分家も、祖父に対しては一分の隙も見せぬほど従順で、言葉ひとつにすら刃が潜んでいた。
姉が姿を消したのは、自分が十五になった晩のことだった。夕食の支度が整い、皆が席に着いているのに、姉だけが帰ってこなかった。あの家では祖父が席につく前に全員が揃っていなければならなかった。母は落ち着きを失い、白い手を膝の上で何度も擦り合わせていた。
そのとき、廊下の先から祖父が現れた。分家の男たちを引き連れ、黙って立ち尽くし、空いた席を一瞥してから、低く冷たい声で父に訊いた。
「どうした」
父は立ち上がって、「帰ってきておりません」と言った。祖父は黙って頷くと、何かを分家に耳打ちして、こう言った。
「お前たちは、ここで待て」
そして出ていった。家の中には、静寂と、母のしゃくり上げるような息づかいだけが残った。
二時間が経った頃だった。玄関の方から、男の怒鳴り声が響いた。家族全員が駆け寄ると、祖父と分家、そして――変わり果てた姉がそこにいた。
顔は腫れ上がり、目の焦点は合っていなかった。服は破かれ、裸に近い姿だった。あれは、人間の姿じゃなかった。
母が卒倒し、父が支えながら姉の名前を呼んだ。けれど姉は何も答えず、誰も見ていない場所を見つめていた。女中たちが姉を抱えて奥へ連れていくと、祖父が父と分家を引き連れ、黙って奥の間へ消えていった。
その晩は眠れなかった。食事の匂いは嘔吐を誘い、布団は生温かく息苦しかった。姉はその夜、部屋には戻らなかった。
翌朝、母の部屋へ行くと、姉が布団に寝かされていた。目は開いていたが、まるで死人のようだった。何かをぶつぶつと呟きながら、視線は母の方をかすめるだけで、自分を見ようとはしなかった。
母が泣きながら言った。
「あの子、おかしくなってしまったの」
それから数日、姉は何も口にせず、虚ろなまま布団に横たわっていた。ある夜、廊下の奥から母の怒鳴る声が微かに聞こえてきた。祖父たちが使う奥の間。あそこは決して近づいてはならない場所だった。
その次の夜、父がやってきて、姉を連れて行った。どこへ行ったのかは聞かされなかった。ただ朝になっても、姉は戻ってこなかった。
その日、祖父の前に座らされ、「母と姉は出て行った。忘れろ」と言われた。
言葉が頭に届かなかった。自分は、捨てられたのだ。
それからは何もかもがどうでもよくなった。酒、煙草、乱暴、すべてをやった。祖父に睨まれ、父に殴られても構わなかった。
ある日、蔵の前で分家の男が袋を抱えて入っていくのを見た。幼い頃から、あの蔵には絶対近づくなと言われていた。
――でも、もうどうでもよかった。
仏間から鍵を盗み出し、夜中に蔵を開けた。中は埃だらけだったが、奥に取っ手が付いた床を見つけた。開けると、地下へ続く階段が現れた。
そこには座敷牢があった。姉がいた。
骸のような身体を引きずり、姉は鉄格子の奥で怯えていた。何度呼びかけても答えはなかった。代わりに、獣の叫びのような声が横から響いた。
「ドアアアアアアアアア!!ヒャアアアアアアアアア!!」
隣の牢には、髪がぼうぼうで毛むくじゃらの男がいた。目が合った瞬間、地獄を見た気がした。
震えながら蔵を抜け出し、鍵を戻して自室へ戻った。朝まで布団の中で目を閉じて、ただ母の顔を思い出していた。
母の連絡先は肌身離さず持っていた。
夜明け、公衆電話から母にかけた。
「……絶対に誰にも言ってはだめ」
母の声は震えていた。だがその後、「一週間後、寺で会おう」と言ってくれた。
それからはひたすら部屋に籠もった。そして、あの日。
父が夜中に部屋に現れた。
その足音を聞いた瞬間、理解した。姉と同じように、自分もあそこへ入れられる。
トイレに行きたいと嘘をつき、窓から脱出した。裏門まで走り、暗がりの田んぼ道を踏みつけて走った。母に電話し、迎えに来てもらった。
車の中で、母に抱きしめられ、やっと泣けた。
あの家は異常だった。あれは伝統でもなんでもない。ただの狂気だった。
――
伊藤は、そこまで話して「それで、その男の子がどうしたと思う?」と俺たちに訊いた。
俺たちは「姉を助けに行ったんだろ?」とか言いながら、先をせがんだが、伊藤は笑って「知らねえよ」とだけ言って、それ以上語らなかった。
俺はその話をずっと覚えていた。数年後、伊藤の家に遊びに行ったとき、伊藤の母親が「うちは母子家庭だからねえ」と言ったのを聞いて、背筋がゾッとした。
あのときの男の子は、伊藤だったんじゃないか――そう思った瞬間、あのときの伊藤の声のイントネーション、あの妙に田舎臭い言葉遣い、すべてがぴたりと噛み合ったような気がして、言葉が出なかった。
いまでも伊藤は、何も語らないままだ。
けれど、俺は信じている。あの家は、まだ、あの山の中に――座敷牢の奥で、息を潜めて、何かを飼っている。
(了)
[出典:657 :本当にあった怖い名無し:2011/12/07(水) 15:02:50.66 ID:gl8X1c+L0]