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四階に増えた一室 rw+2,847-0128

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今でも、四階の匂いを思い出すと喉がひりつく。

消毒液とも古い金属とも判別できない、湿り気を含んだ匂いだ。あの階にだけ、季節とは無関係の湿度があった。

私は当時、雑居ビルの管理会社で事務をしていた。築四十年ほどの古いビルで、入居者は小さな事務所や個人商店ばかり。四階は空室が多く、見取り図でも四〇一号室から四〇五号室までの五部屋構成だった。四〇四号室は存在しない。設計図にも登記にも、最初から欠番として扱われている。

その日、真夏の午後だった。窓ガラスが白く曇るほど蒸し暑く、エアコンの音が事務所に重く響いていた。
黒いコートの男が入ってきた。季節外れだと思ったが、違和感はそれだけではなかった。体格も年齢も掴めない。視線がこちらを正確に捉えているのに、どこか焦点が合っていない。

「四〇四号室を借りたいのだが」

声は、紙を擦り合わせたようにかすれていた。喉の奥で何かが引っかかっている音がする。

「申し訳ありません。その部屋は存在しません」
私はいつも通り、見取り図を取り出して説明した。
「四〇三号室と四〇五号室の間に部屋はありません」

男は図面に目を落とし、ゆっくりと首を振った。
「知っている。だが借りる」

会話が噛み合っていない。そう感じた瞬間、袖口から覗いた手に目が留まった。指の節まで煤けたように黒く、爪の境目が曖昧だった。血色という概念がそこにない。

奥から所長が出てきた。
「どうされましたか」
男は同じ言葉を繰り返した。四〇四号室を借りたい、と。

所長は一瞬だけ私を見てから、柔らかく笑った。
「詳しいお話を伺いましょう」

私は席を外した。事務所の奥で書類を整理しながら、二人の声に耳を澄ませていたが、話し声は次第に低くなり、やがて完全に途切れた。時計の秒針だけがやけに大きく聞こえる。

三十分ほどして呼ばれた。
「このお客様に、四〇四号室をお貸しする」

所長の目が、妙に濡れて見えた。涙ではない。湿った反射だった。

契約書を作成した。部屋番号の欄に、私は一瞬だけペンを止めたが、所長に促され、四〇四と記入した。男は黒い指で署名した。

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インクが紙に沈み込む様子が、微かに揺れて見えた。

一週間後、明渡し予定の確認でビルを訪れた。用事は三階までだったが、何となく四階へ上がった。
あった。
四〇四号室。
新しい金属プレートが、蛍光灯の光を反射している。

見取り図にはない部屋だ。
ドアを叩くと、あの男が現れた。

「見ての通り、四〇四号室だ」
彼は穏やかに言った。
「何かおかしなことでも」

足元を冷たい風がすり抜けた。廊下の奥まで見渡すと、ドアは五つある。数え直しても五つだった。あり得ない。

他の入居者に聞いて回った。
「最初からあったでしょ」
「前の人、挨拶してくれたよ」

彼らは不思議そうでもなく答えた。口の動きと声が微妙にずれて聞こえ、廊下の空気が水のように重かった。

管理人までが言った。
「お国の相談所らしいよ。人の出入りが多くてね」

そのとき、私は思った。あの部屋は、住む場所ではない。客を呼ぶ場所だ。

何度もベルを鳴らし、無理やりドアを押した。だが手のひらが、見えない壁に阻まれた。
熱い。皮膚のような温度がある。

「部屋は、用のないものを拒む」

背後から声がした。振り返ると男が立っていた。エレベーターが止まり、荷物を運ぶ業者が通り過ぎる。彼らは私を押しのけ、その壁を何の抵抗もなくすり抜けていった。

その夜から眠れなくなった。まぶたの裏で、五つ目のドアが開閉を繰り返す。

一ヶ月後、所長が言った。
「退去されるそうだ。立会いを頼む」

ようやく部屋に入れる。そう思った。

ドアはあっさり開いた。中は拍子抜けするほど普通だった。冷蔵庫、テレビ、簡単な家具。床には薄く埃が積もっている。
「確認は終わりか」
男が言った。
「どうやって一部屋増やしたんだ」
「契約だ。契約が続くかぎり、部屋は在る」

男は黒い鞄を持ち、出ていった。

私は一人で点検を続けた。仕掛けはない。だが窓の外は、昼なのに夕暮れ色だった。

帰ろうとしてドアを開けようとしたが、開かない。鍵を回しても音がしない。窓も動かない。
時計は三時で止まっている。

歩くと床がわずかに沈み、足跡が残った。呼吸に合わせて壁が鳴る。冷蔵庫を開けると、さっきと同じ量の食料が入っている。水道の水はぬるく、電灯は切れない。

半年が過ぎた。
私はここで生きている。
だが、ここから出る方法を思い出せない。

壁の向こうで、ベルが鳴っている。
次の契約者が来たのだ。

―――了―――

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