札幌で暮らしていた従兄から聞いた話。
あいつの表情が変わり始めたのは、あの古本屋に入ってからだった。場所は札幌市中央区、中○公園のすぐそば。今はもう取り壊されてしまった、煤けた木造の店だったらしい。
中に入ると、埃っぽい匂いと、誰かがずっと囁いているような空気に包まれたという。棚に並ぶ本は背表紙が読めないほど色褪せ、まるで時の流れを忘れてしまったかのような場所だった。
従兄はその日、なんの目的もなく店内を歩き、ふと取り出した文庫本の隙間から大学ノートが滑り落ちた。それは偶然にしてはできすぎていた。
拾い上げ、開いた瞬間に背中がぞわりとしたらしい。びっしりと、まるで血の滲んだような筆跡でこう書かれていた。
――奴がくる奴がくる奴がくる奴がくる奴がくる……
ページを繰っても、同じ言葉が何度も繰り返され、途中からは
――助けて助けて助けて助けて助けて……
と狂気じみた懇願に変わっていた。
あまりの異様さに、従兄は店主に尋ねた。
「これ、売り物ですか?」
店主は、顔をこわばらせ「あっ」と声をあげると、ノートを無理やり奪い取った。
「なんでもない。これは……見なかったことにしてくれ」
その晩、従兄は眠れなかったという。ノートの言葉が耳の奥で繰り返され、まるで自分の脳が誰かの指先でなぞられているような感覚。
翌日も気づいたら、またあの古本屋に立っていた。
店主は渋い顔をしていたが、通い詰めるうちに観念したのか、ついに口を開いた。
「どうしても知りたいなら、八月二十三日、大雪山の五合目のロッジに泊まってみな……ただし、戻って来られるとは限らんよ」
馬鹿げていると笑い飛ばすこともできた。でも従兄は、もう自分の意思で動いていなかった。
その年の八月二十三日、彼は友人四人と共に大雪山へ向かった。女二人、男三人。
登山そのものに異変はなかった。夕暮れ時、ロッジに到着すると、女二人が「お茶入れてくるね」と階下へ。男三人は寝室のある二階へ荷物を運んだ。
従兄は窓辺に腰かけ、沈む太陽をぼんやり眺めていたという。
そのとき、ドアの向こうから声がした。
「ねえ、開けて。お茶持ってきたよ」
女の一人の声だった。
立ち上がり、ドアノブに手をかけた瞬間。
――ゴトッ
音がして、床に何かが転がった。
見ると、床に横たわっていたのは、生首だった。長い黒髪が広がり、その顔には微笑とも苦悶ともつかない表情。
ただおかしいのは、それが首だけでなく、切断された男の身体の上に載っていたこと。
まるで、誰かが女の生首を、首のない男の胴体に無理やり被せたかのようだった。
そして次の瞬間、隣にいた友人の首も、斬られた。
従兄は、叫び声も出せず、窓から身を投げた。
足を折りながらも、這うようにして山道を逃げ、たまたま通りかかった登山者に助けを求めたという。
警察が到着した時、ロッジ内では女二人も首を失って倒れていた。
驚くべきは、その切断面の鮮やかさ。まるで医療用のレーザーで切ったかのように、出血はほとんどなかったという。
首は、どれ一つ見つからなかった。
そのまま事件は迷宮入りした。
従兄は旭川の病院に運ばれた。ベッドに横たわり、目だけをぎょろつかせていた。何も話さず、ただ天井を見つめ続けた。
ある晩、担当の看護師が点滴を交換している時だった。
――コンコン
「どなたですか?」
「この部屋の者の母でございます。荷物があるので……開けていただけませんか?」
母の声だった。だが、彼の母親は東京の父のもとへ行っているはず。
おかしい。誰が知らせた?
従兄はその瞬間、全てを悟った。
あいつは、決して自分ではドアを開けない。
人の声を真似し、あらゆる理由を並べて、誰かに開けさせようとする。
そして、いったん開けたら、最後。
その夜、従兄は意識を失った。気絶してカーテンの中に倒れていたおかげで、間一髪だった。
だがそれ以降、従兄は「ドア」というものの存在に強烈な恐怖を抱くようになった。
今も、精神病院の鉄格子の向こうで、大学ノートに言葉を綴っているという。
――奴が来る奴が来る奴が来る奴が来る……
この話を聞いたのは、彼の見舞いに行った帰りだった。
東京へ戻った夜、友人二人とこの話を酒の肴に語り合った。午前五時、話が終わると同時に、玄関のチャイムが鳴った。
「おい、俺だよ、祐司だよ。開けてくれよ!」
声は、東京に就職した友人のものだった。
「お土産たくさん持ってるんだよ……開けてくれって!」
息が詰まるような声だった。
一人が裏口へ走り「祐司、こっち開いてるよ」と叫んだ。
だが誰も、家の中へ入ってこなかった。
朝十時、祐司に電話をかけた。
「え?今?こっちにいるよ、東京だけど」
その時、背中に氷のようなものが走った。
あれは……誰だったのだろうか。
もう、二度と。どんな声でも、ドアを開けることはない。
(了)