これは、自分の山仲間が体験したという話だ。
舞台は北海道の大雪山。季節は厳冬。彼は単独で登っていた。朝から天気は上々、登山には理想的な日和だったらしい。が、そこは冬山の気まぐれというやつだ。数時間もしないうちに空が曇り、視界は白一色に塗り潰された。
引き返すには既に深く入り込みすぎていた。前に進むしかない。だが、ホワイトアウトの中で現在地すら分からない。
「……ビバークか?」
野営の覚悟を決めかけていたが、幸運にも一時的に空が明るんだ。うっすらと山の稜線が見え、地形を読み取った彼は、避難小屋の方向を即座に見極めた。
「よし、行ける」
吹雪が再び荒れ狂う中、二時間の行程を踏破。避難小屋の入口には、先行者が雪をかき分けた形跡があった。
中に入ると、奥でシュラフに包まれた二人が静かに眠っていた。どうやらパーティー登山のようだ。音を立てぬよう食事を済ませ、彼も横になった。
どれほど眠っただろう。ふと耳に、ぼそぼそと話す声。男女の会話だ。明日の天気、行程のこと、押し殺した笑い声も混じる。厳冬の山中で女性の声とは珍しい。だが、楽しそうなやりとりに、彼は微笑ましさを感じていた。
「明日の目標が一緒なら、同行してもいいな」
そう考えながら、深い眠りに落ちていった。
翌朝、目覚めると異様な気配。十人ほどの男たちが避難小屋にどやどやと入ってきた。
「……あんた、生きてるのか!?」
ぽかんとしている彼に、一人が顎で奥の二人を指した。
「あれ、オロクだ」
聞けば、三日前に無線で救助要請があったという。悪天で救助が遅れ、発見時にはすでに凍死していた。小屋に遺体を一時安置し、今日ようやく収容に来たとのことだった。
では、昨夜の寝息、話し声は何だったのか? 幻聴か? 疲労や寒さによる幻覚は、冬山では珍しくない。
しかし彼には、確かめなければならないことがあった。
「あのオロク、男女のカップルですか?」
一人が無言で頷き、「新婚旅行だったんだと」と沈んだ声で答えた。
救助隊の一人は彼を知っていたらしく、「今日は日が悪い。さっさと下山した方がいい」と忠告した。だが彼は、全行程を予定通りこなし、無事下山した。
この話をしてくれた時、彼はこう締めくくった。
「いやー、あの夜聞こえた話し声がさ、すごく幸せそうだったんだよ。だからさ、やっぱ山っていいなって、思ったわけ」
……そんな彼も、数年前アルプスの山に抱かれ、消息を絶った。
今ごろは、どこかの稜線で微笑んでいるのかもしれない。
[出典:250 :星烏:2004/09/02 00:55 ID:O2DZlD1u]
(了)