大学時代、俺にはたまに幽霊を見る癖みたいなものがあった。
特別な家系でもなければ、修行をしたわけでもない。ただ、ごくたまに、部屋の隅で誰かがじっとしていたり、夜の道路に立っていたはずの女が車のライトを抜けても残っていたりする。そんなことがあった。
だから俺にとって「幽霊」は現実のひとつで、ただそれを人に言っても仕方がないので、誰にも言わないでいた。
例外が一人だけいた。中学のときに仲良くなった友人、A。あいつは本物だった。祖母も母も姉も、代々“見える”家系で、彼自身もよく見える。ただし、それが日常であるぶん、距離の取り方が上手かった。高校は別だったけど、大学でまた同じ学校になった。学部は違うが、なんとなく縁は続いて、定期的に飯を食いに行くくらいの関係には戻っていた。
そんなある日の深夜。日付が変わってずいぶん経ったころ、スマホが震えた。Cからだった。大学に入ってから仲良くなった女友達で、俺と違って他県からの進学組。根っからの田舎育ちで、大学のあるこの街の夜景だのカラオケだのを、何でもかんでも新鮮だと楽しんでいた。少し浮かれすぎだとは思っていたが、単位は取っていたし、口出しはしなかった。
電話の向こうのCは、酔っていた。声がわずかに上ずっていて、語尾がのびている。何かをしきりに笑っていた。
「先輩とねー、ドライブ。深夜の!」
「どこ行ってんの?」
「トンネルー、××トンネルっていうんだって。知ってる?」
思わず無言になった。××トンネル。地元じゃ有名な心霊スポットだ。地元の奴なら、あそこには行かない。無駄に長く、電灯もまばらで、入ったら最後、出るときには何かを連れて帰る――そういう噂がずっと絶えない場所だった。
「帰ったほうがいいって。そういうとこ、冗談にならないから」
「えー?○○もそういうの信じるんだー?私、今度免許とったら一緒に行こうよー」
「いや、冗談じゃなくて……」
Cは笑っていた。後ろで誰かが窓を叩くような音がして、何人かの男女がしゃべる声が混じった。けれど、それよりも耳につく音があった。
「ォォォオオオオオ……お゛ぉおぉお゛おおおお……」
それが“風”にしては不自然すぎた。確かにトンネルは山の中にある。風が通る地形ではあるかもしれない。けれど、それにしても音が重すぎる。金属のドラム缶を引きずっているような、いや、何かが唸っているような……そういう質感があった。
自分の部屋の窓を開けてみた。無風。街の灯が滲んで静かに揺れているだけ。
「そっち、風強くない?」
「え?全然。無風だよー?」
じゃあこの音は何だ。電話越しに流れ込んでくるその音に、背筋の奥がじっと冷たくなる。通話を切るか迷ったが、Cが心配だったので切れなかった。
そのときだった。
「ああ゛ああ゛ああッ!あ゛あぁああ゛あぁぁあ゛あ゛あッ!」
何かが叫んだ。Cでも、Cの同行者でもない。音の奥にいた“別の何か”が、のたうち、呻き、叫び声をあげていた。喉を潰したような声。言葉ではなく音の断末魔。俺はスマホを耳から離しそうになったが、怖くてできなかった。
Cはそのまま、「先輩さー、マジウケるー」とかなんとか言っていた。異変に気づいている様子はない。だが俺の耳には、あの声が重なり続けていた。
そのまま通話が切れるまで、声は止まらなかった。
翌朝、Cは普通に講義に出てきた。目の下に少しクマができていたが、眠そうなだけで、特別おかしい様子はなかった。俺は昼休みに訊いてみた。
「昨日さ、トンネルでなんか変なことなかった?」
「うーん?とくにはー。なんか言ってたっけ?」
「変な声とか聞こえなかった?」
「なにそれ、怖……いやいや、なかったってば」
と笑われた。……確かに、本人たちは何も聞いてなかったのかもしれない。俺にだけ聞こえていた、ということか。
数日後、Aと久しぶりに飯に行った。Cの話をしたとき、Aは手を止めて、ひとことだけ「……で?」と訊いた。俺はスマホを見せて、ログを確認しながら経緯を説明した。
「風の音がずっと聞こえてて、しかもCのほうは無風だった。最後には……叫び声みたいな……」
Aはカレーをかきこみながら、露骨に嫌そうな顔をした。
「お前、入学してすぐに教えてやればよかったのに。あそこ、そういうとこだから」
「俺が言ってもCは行ったよ。むしろ余計に行ったかもしれない」
「それはそうだな」
少しの沈黙のあと、Aは首を横に振った。
「会ってやれない?」
「やだ。自分のことで精一杯」
「だろうな」
昔からそうだった。俺もAも、他人の面倒は見られない性質だ。助けようとは思っても、結局自分の身がかわいい。そういうふうに育ってきた。
結局それっきり、何もなかった。Cの身にも、Cの周りにも、目立った不幸は起きていない。俺が知っている範囲では。
ただ、ひとつだけ、気になることがある。
あのとき聞こえた声。あの、叫びのような呻き。録音でもできていたらと思うが、それも叶わなかった。
でも、ひとつだけはっきり覚えている。
あの声のなかに、Cの名前を呼ぶ声が、たしかに混ざっていた。
何度も、何度も、苦しそうに、名前を。
「し……ず……く……シズ……ク……」
Cの本名だった。
けれど、そのことはまだ、誰にも言っていない。
[出典:805 :幽霊トンネル ◆txdQ6Z2C6o:2010/07/03(土) 00:38:45 ID:yk2rbvQ60]