これは、自分の山仲間が体験したという話だ。
舞台は北海道の大雪山、厳冬期。彼は単独で入山した。朝は快晴だったが、正午を過ぎたあたりで空が急変し、視界は一面の白に塗り潰された。風が巻き、足跡は数分で消える。コンパスを頼りに進むが、地形の起伏すら判然としない。
引き返すには深く入り込みすぎていた。ビバークも覚悟したそのとき、雲が一瞬だけ裂けた。稜線の影がかすかに浮かび、彼は避難小屋の位置を割り出した。
吹雪の中を二時間。小屋の入口には雪を掻いた跡があった。先行者がいるらしい。
扉を押すと、奥に二つのシュラフが並んでいた。中に人の形がある。顔は見えない。寝息は聞こえなかったが、疲労で眠りが深いのだろうと考え、彼は音を立てずに装備を解き、食事をとった。
やがて横になる。小屋の壁が軋み、風が屋根を叩く。どれほど経ったか、ぼそぼそと話し声が聞こえた。男女の声に思えた。明日の天気の話、ルートの確認、低く押し殺した笑い声。
内容は断片的だったが、なぜか具体的だった。どの尾根を回るか、どの鞍部を越えるか。彼は目を閉じたまま耳を澄ませた。会話は、彼が今日通ってきたルートを、逆から辿るように話していた。
「明日の目標が同じなら、途中まで同行できるかもしれない」
そう思いかけたとき、声がぴたりと止んだ。風の音だけが残った。
翌朝、扉が激しく叩かれた。救助隊だった。
「あんた、生きてるのか」
十人ほどの男たちが小屋に入り、奥の二つを囲んだ。シュラフの口を開くと、青白い顔が現れた。三日前に無線で救助要請があったという。悪天候で出動が遅れ、発見時にはすでに凍死していた。収容のために遺体を一時安置していたのだ。
彼は奥を見た。昨夜、声がした方向だった。
「あの二人、男女ですか」
一人が頷いた。「新婚旅行だと聞いた」
彼は続けた。「昨日の夜、この小屋で話していましたか」
救助隊は顔を見合わせた。「三日前に亡くなっている」
それ以上は何も言わなかった。
彼は予定していた行程をすべてこなし、予定通り下山した。下山後、彼はこう言った。
「声はな、すごく幸せそうだった。あの二人、山が好きだったんだろうな」
少し間を置いて、こうも言った。
「ただな、不思議なんだ。あの夜の会話、俺のルートを正確に辿ってた。俺が通った鞍部も、休んだ岩陰も、全部」
彼は地図を広げ、指でなぞった。
「でもな、三日前の天候じゃ、このルートは取れない。無線の記録でも、二人は別の沢を詰めている」
地図の上で、彼の指と、救助記録の線は交わらなかった。
数年後、彼はアルプスで消息を絶った。天候は穏やかだったという。目撃情報はない。ただ、最後に残されたGPSログは、登山道を外れ、誰も選ばないはずの尾根を、正確になぞっていた。
その尾根は、地図の上で、大雪山のあの稜線とよく似ている。
彼が最後に辿った線は、誰のものだったのか。
[出典:250 :星烏:2004/09/02 00:55 ID:O2DZlD1u]