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夢の中で開いた扉 rw+5,460-0120

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一九九〇年代のはじめ、私は誘拐された。

にわかには信じがたい話だが、事実だ。同じマンションに住む女に声をかけられ、そのまま部屋に入った。用件は曖昧だった。玄関を越えた瞬間、背中に冷たいものが走り、次に気づいたときには浴室の中に押し込まれていた。

鍵の音がした。続けて、低い声が耳元に落ちた。「逃げたら殺す」。それだけだった。縛られもしなかったし、殴られもしなかった。ただ、扉の向こうで家具を動かす音がして、押しても引いてもドアはびくともしなくなった。

浴室は湿っていた。古いマンション特有の、洗剤とカビが混じった匂いが鼻についた。私はタイル張りの床に座り込み、膝を抱えた。時間の感覚はすぐに曖昧になった。明かりは消されていなかったが、昼なのか夜なのかも分からなかった。

声を出そうとは思った。だが、喉が動かなかった。殺すという言葉だけが頭の中で反響して、口を開こうとすると息が詰まった。湯船の中に身を縮め、目地の数を数えることで、かろうじて意識を保っていた。数えているうちに、どこまで数えたのか分からなくなり、また最初に戻った。

眠ったのか、意識を失ったのか、その境目も覚えていない。ただ、ふいに人の気配がして目を開けた。

目の前に、彼が立っていた。

当時つきあっていた彼氏だった。服装も髪型も、記憶のままだった。湯船の縁に手をつき、こちらを覗き込んでいる。

「大丈夫か」

あまりに自然な声だった。私は一瞬、現実だと思いかけて、すぐに否定した。ここは彼が来られる場所ではない。

「なんでここにいるの」

声は自分でも驚くほどかすれていた。

彼は少し首を傾げた。「夢だと思う。たぶん俺は寝てる。ここ、美也子の家の風呂場だろ」

違う。必死に首を振った。ここは私の家ではない。別の部屋だ。同じマンションの、どこかの部屋。そう伝えると、彼は眉をひそめ、「何号室だ」と聞いた。

分からなかった。部屋番号は見ていない。ただ、階だけはぼんやりと覚えていた。それを告げると、彼はしばらく黙り込み、浴室の中を見回した。

「おまえがいなくなって、二日目だ」

その言葉で、胸の奥が冷えた。二日。そんなに時間が経っていたのかどうか、自信はなかった。ただ、その数字だけが妙に重く残った。

「大丈夫だ。頑張れ」

彼はそう言って、浴室の扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった。普通に開き、普通に外へ出ていった。私は声をかけることも、止めることもできなかった。扉が閉まったあと、しばらくして、彼の気配は消えた。

幻覚だと思った。閉じ込められたことで、頭がおかしくなったのだと。そう考えないと、耐えられなかった。

三日目の朝、扉が壊され、私は外に出た。女の部屋を調べに来た警察官に発見された。病院で事情を聞かれ、私は淡々と話した。浴室のこと。女のこと。途中で彼の話をしたとき、捜査員の一人が顔を上げた。

「彼氏さんの件、もう少し詳しく」

彼は警察に、自分が見た夢の話をしていたという。同じマンションの一室に、私が閉じ込められている夢を見たと。夢の話など相手にされないはずだったが、彼は部屋番号まで具体的に語った。調べてみると、その部屋に不審な点があり、そこから捜索が進んだ。

私は、彼が番号を知っていたことに引っかかった。私は知らなかった。見ていない。覚えていない。それなのに、彼は言い当てていた。

数日後、彼がお見舞いに来た。私は聞いた。どうして番号が分かったのか。

彼は言った。私の失踪後、眠れず、大学の階段で足を滑らせて転げ落ち、気を失った。その間に夢を見たのだと。

「風呂場で、おまえと話した。会話の内容も、そのままだろ」

私はうなずいた。

「そのあと、外に出て、ドアの番号を見た。そこで目が覚めた」

彼は軽く笑った。階段から落ちた拍子に、幽体離脱でもしたのかもしれないな、と。

その後、彼は亡くなった。理由は書かない。ただ、事実だ。

いまも分からない。あの風呂場で見たのが幻だったのか、彼の夢が入り込んできたのか。それとも、別の何かなのか。

分かっているのは一つだけだ。
あの閉じた空間で、私は確かに外とつながってしまった。

そのこと自体が、いまも不安として残っている。

(了)

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