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閉じ込められた三日間 r+5,170

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一九九〇年代のはじめ、私は誘拐された。

にわかには信じがたい話だが、私自身が体験した出来事だ。

同じマンションに住む女の人に連れ込まれ、鍵をかけられた風呂場に閉じこめられた。
縛られたわけではない。ただ「逃げたら殺す」と耳元でささやかれ、ドアの外には家具か何かを積んでいるらしく、押してもびくともしなかった。
浴室特有の湿気と消毒液めいた匂いに包まれながら、私はタイル張りの床に座り込み、時間の感覚を失っていった。

すぐに助けが来るのではと考えていた。なにしろ同じマンションの中で、他の住人もいる。叫べば誰かに届くのではないか、と。だが実際には、声を出すことができなかった。脅しの言葉が頭に焼きついて、口を開くたびに喉がからからに乾いてしまう。
危害を加えられていないとはいえ、狭い風呂場に閉じ込められるだけで、世界が歪んでいくような感覚に襲われるものだ。
湯船の中に身を縮め、ぼんやりとタイルの目地を数えていると、現実と夢との境が曖昧になってくる。

どれほど時間が経ったのか分からない。眠ったのか、意識を失ったのか、その境も曖昧なまま、気づけば目の前に彼が立っていた。
当時つきあっていた彼氏だ。
「大丈夫か?」と湯船の中の私を覗き込み、声をかけてきた。

あまりに突拍子もない光景で、幻覚を見ているのだと思った。自分の頭がおかしくなったのか、夢の中なのか。私は怯えと困惑で震えながら問いかけた。
「なんでここにいるの?」

彼は少し首を傾げて、まるで自分に言い聞かせるように答えた。
「たぶん夢だと思うんだよ。俺はいま夢を見てる。ここは美也子の家の風呂場だし……」
(美也子、というのは私の名前だ)

彼が口にした言葉に混乱した。ここは私の部屋ではない。マンションの別の部屋で、あの女の人に閉じこめられているのだ。必死にそれを伝えると、彼は目を細めて「何号室なんだ」と訊いてきた。だが私には部屋番号が分からなかった。ただ、おおよその階しか思い出せなかった。

「おまえがいなくなって、二日目になる」
彼はそう告げた。自分が失踪して二日も経っていることを、その時初めて知った。胸の奥がぞっと冷たくなる。
「絶対に助かるから頑張れ」
そう言って、彼は風呂場の扉を開けて普通に出ていった。
その姿があまりに自然で、幻だったのだと確信した。気が狂って、幻覚を見ているのだと。

ところが、三日目の朝、私は救出された。
女の部屋を調べに来た警察官に見つけられたのだ。
病院で事情を聴かれ、私は一部始終を話した。すると突然、捜査員の一人が「彼氏さんの話について教えてほしい」と言ってきた。

彼が警察に、「同じマンションの一室に閉じこめられている夢を見た」と証言したというのだ。
夢の話をまともに取り合うことは本来ない。だが彼は部屋番号を詳細に語り、調べてみると不審な点があった。結果、それが発見の決め手になったのだと。

私は愕然とした。私が見た幻覚と、彼が見た夢の内容が一致していたからだ。
私は部屋番号を知らなかった。それなのに、彼は番号まで言い当てていた。
数日後、彼がお見舞いに来たときに訊いてみた。すると彼は、大学で私の件もあり寝不足続きだったせいで、階段から転げ落ちて気を失ったのだという。
その時に夢を見た、と。

「夢の中でおまえと会話したんだ。風呂場で座ってて、俺が声をかけて……その会話は現実のあの時と同じだろ」
私は震えながらうなずいた。
「そのあと風呂場を出て、玄関から外に出て、ドアの番号を見た。そこで目が覚めたんだよ」
彼は少し笑いながら言った。「階段から落ちたときに死にかけて、幽体離脱でもしたのかな」

彼のその冗談めいた言葉に救われたのは事実だ。誘拐監禁という出来事は、本来なら強烈なトラウマを残すはずだった。だがその不可思議な体験が、恐怖をやわらげてくれた。
ただ、その後に訪れる別の喪失だけは、どうしても忘れられない。
結婚の約束をする前に、彼は亡くなってしまった。
その時の痛みは、監禁の記憶よりもずっと深く、いまも胸の奥に刺さったままだ。

――あの風呂場で見たのが幻覚だったのか、彼の夢がこちらに届いたのか、いまも分からない。
ただ一つ確かなのは、あのとき彼の声がなければ、私は正気を保てなかったということだけだ。

(了)

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