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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

幻肢の記憶 n+

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あの夜の病室を思い出すと、今でも胸の奥にひやりとした重みが残る。

私は小さな診療所を営んでいる開業医だが、入院設備も僅かながら備えており、救急指定も受けている。病棟の夜はいつも不気味な静けさに満ちていて、私自身もどこか現実と夢の境を歩いているような心持ちで過ごすことが多かった。

当時、同じ病室には二人の特異な患者がいた。ひとりは、プロ棋士のF氏。冷静で寡黙な人柄だが、盤上では鬼のように冴えた指し手を繰り出す人物だった。私は彼と毎晩、消灯前にこっそり囲碁を打っていた。医師と患者という関係を越えた小さな儀式のようで、それが私の一日の終わりの慰めでもあった。

もうひとりの患者は、機械事故で右肘から先を失ったY氏だった。入院してからしばらくは家族が寄り添っていたが、やがて見舞いも一日一度となり、病室には長い沈黙が定着していた。彼は塞ぎ込みがちで、私も必要以上に声を掛けることを避けていた。

その夜、いつものようにF氏と碁盤を挟んでいたとき、不意にY氏が口を開いた。
「先生は……お強いんですか?」

長らく黙っていた彼が言葉を発したことに驚き、私は間抜けにも「え、いや……」と曖昧に答えるしかなかった。だが本当の衝撃は、その直後に訪れた。

Y氏はベッドに腰掛け、上体を起こしていた。その胸の高さに、なぜかマグカップが浮かんでいるように見えた。目の錯覚だと思った。私は当時まだ視力に自信があり、見間違いをするはずがないと心の奥で否定しながらも、確かにそこに浮かぶカップを凝視していた。

包帯で覆われた右腕が、空中に存在しないはずの肘から先を動かすかのように震えた。次の瞬間、マグカップがするりと唇へと運ばれ、中の飲み物が一息に飲み干されたのだ。続けざまに、見えない指先がカップを持ち直し、ベッド脇のチェストへ静かに着地させた。

私は声を失い、ただ「飲み物を……看護婦に持って来させます」と取り繕うように言うのが精一杯だった。

その後、談話室で一人、さきほどの光景を何度も反芻していると、F氏がやって来て低く告げた。
「先生も、見ましたか」
私は短く「ええ」とだけ答えた。

彼は昼間の時間に何度か同じ光景を目撃していたらしい。
「彼には……まだ右手があるんでしょうな」
そう言いながら缶コーヒーを啜る姿が、妙に現実感を削いでいた。本人には伝えていないという。それが一層、この現象の不気味さを増していた。

やがてY氏は回復し、義手リハビリのため専門病院へ移った。私は胸の中の重しがようやく下りるような安堵を覚えた。だが、数週間後にセラピストの報告書に目を通したとき、再び背筋が凍った。

『足元に何かが落ちる音がした。見下ろすと、自分の飲んでいた缶ジュースのリングプルが転がっていた。自分でどうやって缶を開けたのか覚えていない』

その一文を読んだ瞬間、病室で浮かんでいたマグカップの映像が鮮やかに蘇った。Y氏は確かに、失われたはずの右手を動かし続けているのではないか。

私は思わず笑いそうになった。もしあの「見えない手」を自在に使えるなら、義手など必要ないではないか、と。だが、その笑いは自嘲に近かった。なぜなら、見えないものを動かすその力が、本人にとって幸福なのか、不幸なのか、私には分からなかったからだ。

いまも病棟を巡るとき、ふと胸の高さにカップが浮かんでいる錯覚を見ることがある。幻肢という医学的な言葉では片付けられぬ、あの夜の光景が私の目に焼き付いたまま離れない。

その手は今も、どこかで見えぬものを掴み続けているのかもしれない。

画像出典:https://share.google/images/PcidxGJFEh0eHt29B

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若い方の為に補足しますと、昔の缶ジュースは今のプルタブと違って、
リングプルという方式で、完全に缶から抜いてしまわないと飲めませんでした。
昔の道路の片隅にはよく、このリングプルが落ちている光景が見られたものです。

[出典:398 :本当にあった怖い名無し:2010/03/12(金) 10:34:39 ID:mJhtQ1PuO]

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