三年前のことになる。あの夜のことを、今も思い出すと息が詰まる。
当時、俺はキャバクラでボーイをやっていた。きらびやかで、表向きは華やかな世界の裏側に身を置いていたわけだ。けれど、誰もボーイになんて興味を持たない。客が求めるのは女の子で、俺たちはただ灰皿を替え、氷を運び、酒を注ぐだけの存在。影のように立ち働くのが仕事だった。
あの世界には奇妙な人間ばかり集まってくる。元ホスト、元ITの技術者、元ヤクザ……肩書きはバラバラで、皆どこかで道を踏み外してここに流れ着く。
だが長続きするやつは少ない。十人雇ったら一ヶ月後には半分に減る。潰れるやつもいるし、消えるやつもいる。俺はその中で、なんとか四ヶ月目を迎えていた。
その夜、ふらりと新規の客が来た。年の頃は五十ほど。背広は古びて皺が寄り、裕福そうには見えない。とてもキャバクラに似合う客には思えなかった。場違いな優しげな雰囲気さえ漂わせていて、俺は正直、大丈夫かと首を傾げた。うちの店はそこそこ値の張る場所だったから。
妙なのは、そいつが席に着いてから一時間近く、誰も指名しなかったことだ。普通ならフリーで入れば、嬢が隣につくはずなのに、ずっと一人でチビチビと酒を口にしている。
気になってカウンターに確認すると、案の定、彼は最初から「女性は付けなくていい」と言っていたらしい。ただここで飲みたいとだけ言い残して。
カウンターも黒服も困惑していて、「まあ適当に探ってみてくれよ」なんて冗談半分に俺に振ってきた。けれど、その冗談は現実になった。
客は退屈に耐えかねたのか、よりにもよって俺を場内指名してきたのだ。ボーイが指名されるのは稀だが、ゼロではない。そうなれば仕事はすべて免除され、飲みながら隣に座っていればいい。酒も飲める、煙草も吸える、堂々とサボれる――ボーイにとってはご褒美みたいな時間だった。潰れるほど飲んだら後で殴られるが。
俺は客の隣に腰掛け、軽口を叩き合った。酒の勢いもあり、くだらない話でそこそこ盛り上がった。だが、話題が尽きかけたところで、つい口を滑らせてしまった。
「そういえば、どうして嬢を指名せず、一人で飲んでたんです?」
その問いかけに、空気が一変した。笑みが消え、客の顔に寂しげな影が差す。
そして、ぽつりと呟いた。
「娘が……ここで働いていたんだ。私に内緒でね」
その瞬間、俺は悟った。あぁ、家出か何かで親に黙って夜の世界に入ったんだろう……。源氏名を使えば本名なんて分からない。黒服に聞いたところで答えるはずもない。
けれど、俺の予想は甘かった。
「娘は……死んだんだよ。ひどい死に方だった」
重すぎる言葉に、背筋が冷たくなった。酒気は一瞬で飛び、口の中が渇く。
男はゆっくりと続けた。
「知りたいかい? なぜ死んだのか」
俺は躊躇したが、好奇心が勝ってしまった。
「差し支えなければ……」
「薬だ。ドラッグに溺れて、骨と皮だけになって死んだ。……ここが原因だと思っている。娘の交友関係を洗い、親友だという子を問い詰めたら、この店の名前が出てきた。警察は動かなかった。だから、私は復讐に来たんだ」
その言葉を聞いて、ようやく気づいた。目の前に座っているこの男は、本気で俺たちを恨んでいる。危険なのは、客でも嬢でもなく――今まさに隣に座る俺だ。
「復讐するために……今日ここに来たんですか」
震える声で問うと、男は小さく頷いた。
「ああ、そうするつもりだった。……でも、もういい。気が変わった」
そう言って、男はバッグから銀色の光を取り出した。包丁だった。
俺の心臓が耳の奥で轟音を立てる。言葉と行動が正反対じゃないか。
しかし、男は刃を見せつけるように掲げ、すぐに鞘にしまい込んだ。
「もう娘に会えたからな。笑っていた……君のおかげだ。ありがとう」
何を言っているのか理解できなかった。俺はただ座っていただけだ。それなのに「娘に会えた」とはどういう意味なのか。
男は会計を済ませ、ふらりと立ち上がった。外に出てからも、俺は心臓がバクバクしていた。挨拶をしたが、「また来てください」とはとても言えなかった。
別れ際、男は笑みを浮かべて言った。
「娘は本気だったんだな……なら、それでいい。もう……いいんだ」
その言葉が耳に刺さって離れなかった。
なぜ俺に向かって「娘」などと言ったのか。あの夜、酔いのせいだと無理やり自分を納得させたが、心の底で恐怖が膨らんでいた。
鏡に映る自分の顔が、一瞬だけ見知らぬ女に見えたことがある。濡れたように光る瞳と、笑っていない口元。その像が、あの男の言葉と重なってしまう。
「娘に会えた」
あの言葉の意味を考えるたび、背中に氷を押し当てられるような感覚が蘇る。俺は何を見られていたのか。男の目には、俺の姿がどんなふうに映っていたのか。
結局、その違和感から逃げられず、ほどなくして店を辞めた。
あの男がその後どうしたのか、誰も知らない。ただ、二度と来なかったという話だけが残っている。
――今も思う。あの時、本当にそこにいたのは俺だったのか。
それとも、俺の影に娘がまとわりつき、笑っていたのか。
あの夜の記憶は、いつも途中で歪んでしまう。酒のせいなのか、恐怖のせいなのか……。
ただ一つ確かなのは、俺はあの笑みを忘れられないということだ。
(了)
[出典:88: 1:2011/07/18(月) 19:12:38.62 ID:cNhDKNc60]