あれは、夏の終わりの湿気がまとわりつくような夜のことだった。
まだ昼の熱気がアスファルトに残っていて、じんわりと足の裏から体に這い上がってくるような、息苦しい空気だったのを覚えている。
その頃、住宅街の奥まったところにあるカフェバーで働いていた。
周りは静かな住宅ばかりで、夜になっても人通りはほとんどない。煌々とした駅前の居酒屋とは正反対の、取り残されたような小さな店だった。
客も多くはなく、いつの間にか友人たちの溜まり場になってしまっていた。私にとっても、仕事場というよりは、長居して話をする場所、そんな居心地の方が強かった。
その夜も、いつものように開店準備をしていると、友人の一人が女を連れてやってきた。彼は普段、私たちの輪の中心にいて、冗談ばかり飛ばし、笑いを絶やさない。ところが、その日は違った。入ってきた瞬間から空気が重く、顔色は死人のように青白かった。
私は思わず声をかけた。
「どうした? 元気ないな。何かあったのか?」
返ってきた声は、別人のように低かった。
「ああ……すげえ怖いことがあった」
幽霊でも見たんだろう、と冗談めかして笑ったが、彼は何も言わず黙り込んだ。その隣にいた彼女も、口を開こうとしない。
妙な沈黙だけが、店の中に溜まっていった。
彼には霊感があった。昔から不可解な話を聞かせては、私たちを怖がらせてきた。けれど、そういう時は決まって得意げで、少しでも面白く話そうとしていた。それが今夜に限って、頭を抱え、歯を食いしばるように黙り込んでいる。
その姿に、好奇心がむしろ強く煽られていった。
「なあ、話せよ」
しつこく言い続け、彼女の方にも問い詰める。けれど二人とも視線を落とすばかりで答えない。
結局、私が根負けしないと知ったのか、彼はようやく口を開いた。
ぽつぽつとした語り口だったが、背筋が冷たくなるには十分だった。
―――
その日、彼は専門学校の研修旅行から戻ってきた。電車を降りて、ふと鍵を忘れてきたことを思い出した。いつも家には誰かがいる。だから慌てる必要もなく、電話を入れておこうと公衆電話を探した。
数回コールしただけで受話器が取られた。
「もしもし、俺だけど。今、駅に着いた。鍵ないんだ、開けといて」
言い終わると同時に切った。いつものことだ。家族の誰かが聞いているだろう。
バスに揺られて家に戻ると、玄関は閉ざされたままだった。
呼び鈴を鳴らしても応答はなく、窓越しにも人影は見えない。
確かに電話に出たはずなのに。
彼は不審に思い、近所のタバコ屋の前にある公衆電話へ向かった。再び家にかけると、すぐに受話器が上がる音がした。
「もしもし、俺だよ」
沈黙。
「もしもし! 聞こえてんだろ!」
呼びかけても、返事はない。
受話器の向こうからは、呼吸音すら聞こえなかった。
それから彼は何度もかけ直した。結果は同じ。誰かが確かに出るのに、言葉を返さない。
電話が故障しているのかと思い直し、彼は玄関先で家族を待つことにした。
しばらくして、玄関脇に隠してあった予備の鍵を思い出した。ようやく家に入ると、中はしんと静まり返っていた。家具の位置も変わっていない。電話も正常に使える。受話器を取り、かけてみても普通に音が鳴った。
あれほどしつこく応答しなかったのが嘘のように。
気味の悪さを振り払うように、もう一度だけ公衆電話へ走った。念のため、今度は鍵をかけ直し、ドアを確認してから家を出たという。
そして再び番号を押すと、やはり誰かが受話器を上げた。
胸がざわついた。
「もしもし」
沈黙。
「姉ちゃんだろ? ふざけんなよ」
返答はない。
「誰なんだよ……!」
息を荒げて問い詰めると、長い間があった。
受話器の奥から、遠く、深い場所から響くように、声が落ちてきた。
『…………ダ レ モ イ ナ イ ヨ…………』
ぞっとした。
聞いたことのない声。人間の発声なのに、どこか金属的で、奥行きのない響き。耳の奥を針で刺されたように、不快な痺れが残った。
彼は思わず受話器を叩きつけ、そのまま家へ走った。
鍵を確認し、慎重に中へ踏み込む。誰もいない。影も音もなかった。
ただ一つだけ異様だったのは、居間の電話の受話器が、外れて床に落ちていたことだった。
―――
彼はそこで話を終え、頭を抱えた。
私は思わず笑いそうになったが、喉の奥で乾いた息しか出なかった。
彼が見せた蒼ざめた顔、震える指先が、冗談ではないことを示していたからだ。
今でもその話を思い出すと、耳の奥に妙な響きが蘇る。
「ダレモイナイヨ」
その声を、確かに私自身も一度は聞いたことがある気がしてならない。
あの夜以来、電話のベルが鳴るたびに、私は少しだけ躊躇してしまうのだ。
[出典:800 :あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/04/15 21:21]