これは、会社の先輩から聞いた話だ。
新入社員のNさんが、就職を機に始めた一人暮らしの出来事だという。
古びたアパートだったが、六畳の部屋と風呂トイレ別。駅から少し遠いのが難点だが、Nさんには初めての一人暮らしが何よりも楽しみだった。
だが、一か月ほど経ったある日、アパートのインターホンが鳴らないことに気づいた。最初は郵便配達員に指摘され、試してみると確かに音がしない。電池を交換しても直らず、管理会社に問い合わせると、有料で修理が必要だと言われた。初任給を節約したいNさんは放置を決めた。
それから訪問者が来るたび、忍び足で覗き窓から様子をうかがうのが習慣になった。不審者には居留守を使い、実際それで困ることもなかった。
しかし、ある夜のこと。
トイレに向かう途中、玄関の外から靴音が聞こえた。深夜の静寂に響くその音は、ゆっくりと近づいてきて、やがて部屋の前で止まった。覗き窓からのぞくと、見知らぬ男が立っていた。制服らしきものは着ておらず、荷物もない。
「勧誘か…?」
警戒しながら様子を見守ると、男はインターホンを押し始めた。もちろん音はしない。それでも押すのをやめず、三度目の後、ポケットに手を入れ、何かを取り出した。次の瞬間、それがカギ穴に差し込まれるのを見て、Nさんの心臓は跳ね上がった。
「なんで…!」
男の手元でカギが回ろうとしている。Nさんは反射的に玄関に駆け寄り、回りかけたカギを勢いよく戻した。
カチャッ。
男は一瞬驚いたように動きを止め、すぐに廊下を駆け去った。玄関を開ける勇気はなかったが、覗き窓から見えたのは、暗がりの中へと消えていく男の後ろ姿だった。
それからNさんは即座に管理会社に連絡し、ドアの補強を依頼した。それ以降、夜に外を歩く靴音が聞こえるたび、居留守を使うことができなくなったという。
玄関の向こう側で、まだ誰かが覗き窓を見ている気がして。
[出典:686 居留守 2009/05/30(土) 14:48:48 ID:koO7bPF30]