この話を耳にしたのは、同僚の先輩が酒席でふと漏らした時だった。
冗談めかして始められたものの、周囲はすぐに笑うのをやめた。妙に湿った空気をまとった語り口で、続きに引き込まれるしかなかった。
登場するのは、新入社員として入社したばかりのNという若者だ。実家を離れ、一人暮らしを始めることに胸を膨らませていた。引っ越した先は築年数の経った木造アパート。六畳の部屋に小さな台所、浴室とトイレが分かれているのが自慢だった。駅から徒歩十五分以上かかるのが難点だったが、静かな環境にひとり腰を落ち着けられることをNは楽しんでいたらしい。
その生活が一変するのは、入居してからひと月ほど経った頃だった。インターホンが鳴らないことに気づいたのだ。最初に指摘したのは郵便配達員だったという。「押しても反応しませんね」と首を傾げられ、試しにボタンを押してみても確かに無音だった。電池を替えても直らず、管理会社に問い合わせると「修理には費用がかかります」と素っ気なく言われた。初任給前で出費を抑えたいNは、直すのを諦め、放置することにした。
それからは訪問者が来るたびに、玄関の覗き窓からこっそり外をうかがうのが習慣になった。無視すれば済む話だと軽く考えていた。実際、宗教の勧誘や宅配業者の訪問も、居留守で難なくやり過ごせた。
だが、あの夜を境に状況は変わった。
深夜、トイレに立とうとした時だった。廊下から「コツ、コツ」と靴底が擦れる音が近づいてきた。静まり返った時間帯に響くそれは、Nの鼓動をいやに強調したという。音は玄関前で止まり、沈黙が訪れた。息を潜め、覗き窓から外をのぞく。
そこには、見覚えのない男が立っていた。制服も荷物もなく、ただ無言で扉に向かっている。若いのか年配なのかもはっきりせず、街灯の薄い明かりに顔の輪郭がぼんやり浮かぶばかりだった。
「勧誘か……」
Nはそう思ったが、次の瞬間、男の行動に背筋が固まった。
男は鳴らないインターホンを押し続けていたのだ。カチリとも音のしないボタンを、一度、二度、三度……執拗に指で押す。なぜ反応がないのに繰り返すのか。Nが眉をひそめた時、男の手がポケットに潜り込んだ。取り出されたのは細い金属。
それが鍵穴に差し込まれるのを見た瞬間、Nの喉が凍りついた。
男の手元で、金属の棒がわずかに鍵穴を揺らした。
静かな夜に、微細な金属音が擦れ合って鳴る。Nの背中に冷たい汗が流れ、足が勝手に玄関へ駆け出していた。
扉の向こう側で何かが回ろうとする感触。咄嗟にドアノブを握りしめ、内側から力任せに逆へ回した。
「カチャッ」
小さな音が玄関の空気を裂いた。外の男の手が止まる。ほんの刹那、互いの存在を鍵を挟んで確かめ合ったような緊張が走った。
そして男は、不意に動きを翻した。駆け足の靴音が廊下を突き抜け、階段を下りる音へ変わる。やがて外の闇に溶けるように遠ざかっていった。
だが、静寂は安堵をもたらさなかった。息を荒げたNは、扉を開けて追いかける勇気など持てなかった。覗き窓に額を寄せ、闇に消える背中をただ見送ったという。廊下の蛍光灯はちらつき、微かに焦げた匂いを漂わせていた。
翌朝すぐ、Nは管理会社に連絡した。事情を説明すると、担当者は慌てたように「では補強工事を」と言った。追加の鍵やドアチェーンを取り付ける手配がなされ、数日後には以前よりも頑丈な扉に替わった。

だが問題はそこからだった。
ある晩、布団に入ってしばらくした頃。廊下からあの音がしたのだ。コツ、コツ、と靴底の硬い響き。思わず布団の中で身を固める。足音は真っ直ぐ玄関の前で止まった。
静寂の中、Nは耳を澄ませた。インターホンの音はしない。そもそも壊れている。だが、押されている感覚があった。扉越しに伝わる、わずかな圧迫感。まるで何度もボタンを押す人差し指のリズムが、木製の扉を通じて皮膚に触れてくるかのようだった。
息を詰めたまま数分が過ぎる。やがて足音は再び遠ざかり、夜は元の静けさを取り戻した。
翌朝、玄関を出たNは違和感に気づいた。覗き窓のガラスが曇っていたのだ。内側から拭っても消えない。外に出て覗き窓を確認すると、そこには油のような指跡が円を描いて残っていた。まるで外側から、じっと部屋の中を覗き込んでいたかのように。
Nはその日から、夜になると玄関の覗き窓を凝視する癖がついた。
帰宅してドアを閉めた瞬間、背後に目を感じる。誰かが、あの小さなガラスの向こうから覗いているようで、胸の奥がざわついた。
補強工事を終えたはずの扉も、ひとりきりの夜には頼りなく思えた。布団に潜っても、耳は常に廊下の気配を拾う。時計の針が零時を過ぎた頃、必ずといっていいほど「コツ、コツ」と靴音が訪れた。止まる位置は決まって玄関の前。
その夜も同じだった。だが異なるのは、足音が止んだ後に、小さな息遣いが聞こえたことだ。覗き窓に口を寄せ、呼気がかかるかのような湿り気。Nは思わず枕で耳を塞いだが、頭の奥にはその呼吸が焼き付いて離れなかった。
翌朝、出勤前に玄関を確認すると、またも覗き窓が曇っていた。指跡に混じり、吐息で曇った跡が幾重にも重なっている。ぞっとして鍵を二度三度と確認し、逃げるように部屋を出た。
同僚に打ち明ける勇気もなく、Nはただ耐え続けたという。だが一度、思い切って深夜に覗き窓を覗き返したことがある。足音が近づき、扉の前で止まった瞬間に。
視界いっぱいに「眼」があった。血走ったわけでも、特別に異様な形をしていたわけでもない。ただ生々しく濡れた人間の眼が、ガラス越しにぴたりと自分を見つめていた。
Nは後ずさり、布団へ逃げ込んだ。息を殺して朝を迎え、以降二度と覗き返すことはなかった。
月日が経ち、Nはその部屋を退去した。新しい住まいでは何も起こらなかった。だが彼は今も、廊下を歩く靴音に神経を尖らせる。深夜に響くそれが自分の前で止まると、居留守を決め込むことができない。
玄関の向こうに、覗き窓を覗く「誰か」がいる気がしてならないからだ。
そして不思議なことに、新居のインターホンも、最初から鳴らないままなのだという。
(了)