ネットで有名な怖い話・都市伝説・不思議な話 ランキング

怖いお話.net【厳選まとめ】

短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

雨の朝に消えた人 n+

更新日:

Sponsord Link

あの日のことを、三十年近く経った今でも鮮明に覚えている。

小学校に上がる前だったと思う。まだ幼かったから記憶はぼんやりしていていいはずなのに、なぜかその朝だけは、輪郭が鋭く焼きついている。まるで誰かが頭の中に刻印したように。

目を覚ましたとき、いつものはずの家の中に、異様な沈黙があった。隣には兄が寝ていた。布団の中で静かに呼吸をしているように見えた。けれど、廊下からも台所からも、母の足音も父の咳払いも聞こえない。まだ早朝だったのかもしれない。けれど、幼心にも、普段と違う、と直感した。

家中を歩き回っても、誰もいない。
押し入れを開けても、トイレを覗いても、どこにも気配がなかった。あまりに静かすぎて、自分の足音がやけに大きく響いた。胸がざわざわして、たまらなくなって、兄を揺り起こそうとした。

「おきて」
そう声をかけて、肩を揺すった。
けれど、兄の体はぐにゃりと沈むように揺れるだけで、目を開けなかった。寝ているというより、抜け殻に触れているような手応えだった。もっと強く揺すった。布団から引きずり出すようにしても、まるで人形のように反応しない。怖くて泣きそうになった。

外に出るしかなかった。
玄関を開けたとたん、しとしとと雨が降っていた。空は重たく曇っていて、薄暗かった。朝なのか夕方なのか、時間の感覚すら失われたようだった。泣きながら家の周りを歩き回った。誰もいない。隣の家の窓も、道の向こうの家のカーテンも閉じたままで、人の気配がまるでなかった。雨音だけが世界を支配していた。

泣き疲れてまた家に戻ったとき、不意に両親が現れた。
台所に立っていた。どこから入ってきたのかは分からない。目をこすって見直したほどだ。
「どこに行ってたの」と私は尋ねた。
すると二人は、少し笑みを浮かべるようにして答えた。
「お父さんはここにいるよ」
「お母さんはここにいるよ」
それだけ。問いに対して答えてはいなかった。

混乱していた私にとって、両親が戻ってきたことだけは救いだった。安心して、嗚咽が止まらなくなった。そこへ兄が現れた。階段を下りてきたように見えた。

けれど、それを見た瞬間、胸が冷えた。
目の前にいたのは、兄ではなかったからだ。
背の高さや体つきは似ていた。声も似ていたかもしれない。けれど顔がまったく違っていた。
目つきは鋭く、鼻筋は細く高い。頬はやせてこけ、髪はべたりと額に貼りついていた。昨日まで布団の隣で眠っていた兄ではない。寝顔を揺さぶったあの子でもない。まるで、別人が兄の服を着ているようだった。

両親に訴えようとしたが、声が喉につかえて出なかった。両親は何事もなかったようにその子を「お兄ちゃん」と呼び、普段通りに振る舞っていた。違う、と叫びたかったが、言えなかった。幼い自分はただ震えながら、「この人をお兄ちゃんだと思わなければいけない」と理解しようとした。

その日以来、兄は冷たくなった。
目を合わせなくなり、話しかけても面倒くさそうにしか答えない。ときにはわざと傷つけるような言葉を投げつけてきた。それまで仲が良かったわけではないが、笑い合う瞬間も確かにあったのに、あの朝を境にすべて消えた。兄弟仲というものは、そういう小さな綻びから壊れていくのだろう。

それでも年月は過ぎた。小学校、中学校、高校……兄は一つ年上で、いつも先を歩いていた。
私はその背を追いかけるように成長したが、心のどこかで、あれは兄ではない、と感じ続けていた。家族の写真を見返しても、その境目に気づくのは私だけだった。写真に写る兄は、確かに昔とは顔つきが違っていた。だが誰も疑問を抱かない。家族とはそういうものかもしれない。互いの変化に目をつむり、当たり前のように同じ屋根の下で暮らし続ける。

大人になってからも、この疑念は消えなかった。
時折思う。あの雨の朝、両親はどこに行っていたのか。眠っていた兄はどこへ消えたのか。そして今でも隣にいるこの人は、いったい誰なのか。

私は確かに、あの日の兄の顔を覚えている。
柔らかい目尻、少し丸い鼻、笑うと頬にえくぼができる顔。
目の前の「兄」には、そんな面影が一つも残っていない。

一度だけ、酒に酔った兄に尋ねたことがある。
「ねえ、覚えてる? 私が小さい頃、ある朝急に変わったって」
兄は黙っていた。
しばらくして、無理に笑った。
「変なこと言うなよ」
その声は、確かに兄の声だった。けれど、私の胸には冷たいものが残った。

最近になって、ふと気づいた。
兄の目を避けているのは、むしろ私の方かもしれない。彼が変わったのではなく、私が「違う」と決めつけているだけなのかもしれない。幼い日の恐怖が、記憶を歪めただけなのかもしれない。……そう思おうとした。

けれど先日、古いアルバムを整理していて、背筋が凍った。
幼稚園の頃の写真、家族で写っているものを見返していたら、兄の顔だけが不自然に滲んでいた。ピントが合っていないわけではない。他の家族は鮮明なのに、兄の輪郭だけが少しずつぼやけている。数年経つごとに、その滲みは濃くなっていた。
そして、あの日を境に撮られた写真では、もうはっきりと別人の顔をしていた。

私はそのアルバムを閉じてしまった。
けれど今も、部屋の隅にそれがある。開ければ、確かめられる。
確かめてはいけない気がする。もし本当にあの朝、兄が入れ替わっていたのなら、いま目の前にいる人は誰なのか。私と血を分けた兄は、どこへ行ってしまったのか。

雨の音がすると、あの日の朝を思い出す。
家の中に響いていた異様な沈黙。布団の中で揺すっても起きなかった温もり。
あれは本当に夢だったのだろうか。
それとも、あのとき私は、別の世界に踏み込んでしまったのだろうか。

兄の部屋の前を通るたび、胸がざわつく。ドアを開ければ、もしかすると知らない誰かが、こちらをじっと見返してくるのではないか。そう思うと足が止まる。だが、開けずに通り過ぎることもできない。私はまだ、確かめられずにいる。

[出典:765 :あなたのうしろに名無しさんが……:03/01/25 13:15]

Sponsored Link

Sponsored Link

-短編, 奇妙な話・不思議な話・怪異譚, n+2025

Copyright© 怖いお話.net【厳選まとめ】 , 2025 All Rights Reserved.