小学二年の私が、庭の隅にある小さな盛り土に水を垂らしていた頃の話だ。
夕方の光が斜めに差し込み、花壇の土を赤く照らしていた。
風はほとんど動かず、空気は薄い膜のように肌へ張りついていた。
日が傾ききる直前、庭の奥のヒメリンゴの葉だけが、ざらりと音を立てて震えた。
そこに眠っていたのは、去年死んだノコギリクワガタのクワちゃん。
木片で拵えた即席の墓標は、雨に削られ少し傾いていた。
線香の甘い煙が細くのび、土のにおいと混じる。
私はその香りを吸い込みながら、学校での出来事を飲み込めず、舌の裏に重い石を置くような気分でいた。
Sちゃん――クラスの中心にいたあの子。
タロットだとか、霊がどうのだとか、皆が息をひそめる話題を軽々と口にし、
まるで教室の温度を支配しているみたいだった。
彼女の視線がこちらへ向くたび、胸の奥がちくりと縮む。
あの子の周りだけ、夏とは別種の熱を帯びていた。
私は極力距離を取っていたつもりだ。
けれどSちゃんは、それを気に入らなかったらしい。
私の机の周りに漂う空気が、ある日を境にねばついた。
休み時間になると、誰かが視線を外した瞬間の、しめった囁きが必ず耳の後ろに貼りつく。
「……あの子、呪われてるんだって」
背中にかすかな熱がまとわり、机の脚がきしんだような気がした。
家路につくころには、肩が石のように固まり、指先まで冷えていた。
庭に入った瞬間、張りついた空気がふっとゆるむ。
クワちゃんの小さな墓に向かうと、表層の緊張が剥がれ落ち、水をかける手が勝手に震えた。
涙が土に落ち、ゆっくりと吸い込まれていく……その瞬間、胸の奥の堰が崩れた。
声にならない音が喉の奥からこぼれ、私は土の匂いに顔を埋めた。
翌日。
家に帰ると、花壇の向かいに置いた木製の台に、誰かが腰掛けていた。
夕陽に照らされて輪郭が柔らかく揺れ、膝の上で指が静かに組まれていた。
ゆるくパーマのかかったおさげが、光をひそやかに返していた。
本来なら警戒すべきなのに、不思議と胸の奥が温かく緩んだ。
その人の膝へ吸い寄せられるように近づき、私は気づけば額を押しつけていた。
背中を撫でる手は、細くあたたかかった。
学校のこと、Sちゃんのこと、自分の醜い感情まで、息を乱しながら吐き出した。
言葉はうまく並ばず、泣き声に混じって途切れたが、その手は終始、一定のリズムで背を撫で続けていた。
土と線香の匂い、夕方の光、撫でる手の控えめな温度。
それらが混ざる中、意識がいつの間にか沈んでいた。
祖母に揺さぶられて目を覚ました時には、空が群青に沈み始めていた。
台の上には私だけが残され、さっきまでの温もりはどこにもなかった。
言いそびれた何かが舌の裏に残ったまま、私はその夜を過ごした。
祖母に起こされた翌朝
胸の奥にまだ薄く残っていたぬくもりを指先で確かめるようにしながら学校へ向かった。
蝉の声が近く遠くで重なり、道端のアスファルトは朝から湿った熱を吐いていた。
それとは対照的に、胸の内側にはどこかひんやりした空洞があり、指で触れても正体がつかめなかった。
教室に入った瞬間、その空洞はさらに広がった。
Sちゃんの席だけがぽつんと空いていたのだ。
誰も理由を口にしようとせず、視線を合わせるとすぐ逸らされた。
黒板の上を風が通ったわけでもないのに、チョークの粉がかすかに揺れたように見えた。
その日の休み時間は、いつもよりも色が薄かった。
椅子の脚が床を擦る音が妙に耳に刺さり、人の話し声は紙越しに聞いているように遠かった。
ふと給食当番の前掛けをたたんでいると、裾をつまむ小さな指があった。
普段あまり話さない子が、息を飲むように小声で囁いた。
「……今日ね、静かなんだね」
その声が、どこかほっと緩んでいるのが分かった。
放課後、家に帰ると、昨日のお姉さんの姿はどこにもなかった。
台には乾いた葉が数枚落ち、花壇の土は午後の日差しでぬらつくような匂いを放っていた。
しゃがみ込んでクワちゃんの墓へ水をかけると、土がほどけるように沈み、かすかに音を立てた。
その音が妙に耳に残り、私は手を止めた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
膝の裏に汗がじんわり溜まり、指先が土の冷たさに救われるようだった。
背後でヒメリンゴの葉が一度だけ、ふるりと震えた。
翌日、Sちゃんが登校してきた。
けれどその姿は、休む前の彼女とはまるで別物だった。
背筋が落ち、目の下に小さな影が貼りついている。
机にカバンを置く手が、一瞬だけためらったように見えた。
クラスメイトがいつもの調子で占いを頼むと、彼女は弾かれたように振り返り、
「その話、もうやめて……」と押し出すように言い返した。
声は震えてはいなかったが、奥に沈んだ熱だけが異様に感じられた。
彼女の周りの空気が、夏なのに乾いたように感じられる。
それからSちゃんは、霊だの占いだのという言葉が教室のどこかで漏れる度に、
反射的に眉をひそめ、強い調子で遮った。
クラスの空気はあっけないほど早く変わり、
あれほど彼女を囲んでいた子たちさえ、徐々に距離を置くようになった。
誰かの人気が剥がれる時は、こんなに音がしないものなのかと、幼い私は初めて知った。
その一週間後。
放課後の庭で水を汲んでいると、またあの台に目がいった。
昨日までなかった細い爪痕のようなものが、端に三筋ついていた。
木が乾いて割れた跡かもしれないが、なぜか目が離せなかった。
風が吹いていないのに、おさげが揺れる残像だけが脳裏に浮かんだ。
私は指先をその爪痕へそっと添えた。
木の温度は、まだわずかにぬるかった。
夏休みが終わるころには、Sちゃんはすっかり普通の子になっていた。
以前のような派手さも、妙な自信も、ほとんど影を潜めていた。
ただ、私を見る目だけはなぜか一度も合わなかった。
廊下ですれ違うと、気配だけが先に逃げていくようだった。
そのたびに、胸の奥にひんやりした指が触れるような感覚が残った。
ある日、帰り際に靴を履いていると、
下駄箱の奥の方から、ひそりとした声が聞こえた。
誰かが話しているというより、空気の向こうで擦れた音が連なっているようだった。
耳を澄ませると、その音は一瞬だけ女の人の囁きに似た形をとり、
すぐに靴音へ紛れた。
家に戻ると、花壇の土がいつもより乾いていた。
水をかけると、じゅ、と湿る音がして、土がゆっくり沈む。
その沈み方が、まるで誰かが小さな身体をうずめ直したようで、
胸の奥がじんわり熱くなった。
私は線香に火をつけながら、ふと気づいた。
あのお姉さんに会ったあの日以来、
クワちゃんのお墓の土は崩れたことがなかった。
春先の雨でも、台風でも、どこかで必ず形を保っていた。
子供心に、それが妙に心地よく思えた。
ある夕方、台の前で腰を下ろし、膝を抱えて空を見ていた時のことだ。
ヒメリンゴの枝が、鳥でも止まったように小さく揺れた。
そして耳元でふっと息が触れた気がした。
風は吹いていなかった。
私は膝に視線を落とし、掌をそっと合わせた。
「……クワちゃん、ありがとね」
その瞬間、背中をそっと押されるような感覚がした。
振り返ると誰もいない。
ただ、台の上の三筋の爪痕が、夕陽に照らされてわずかに赤く光っていた。
Sちゃんがどう変わったのか、今も分からない。
ただ一つだけ確信していることがある。
あの日、私の膝に頭を預けさせてくれた“お姉さん”が、
どんな姿をしていても、どんな性別であっても、
私を守ろうとしてくれた存在だったということだ。
もし、クワちゃんが姿を選べたのなら――
あの優しい手つきに似合う形を選んだだけなのかもしれない。
昆虫の殻ではできない動きを、
人の形ならできると知っていたのかもしれない。
あるいは、あの姿こそが、
あの子の魂の「本当の形」だったのかもしれない。
——終——
[出典:838 :本当にあった怖い名無し:2012/08/16(木) 13:00:19.65 ID:Xuci0W400]