平成が始まった翌日、塾へ向かう夕暮れの新宿で、私は一人の幼子を見た。
二歳ほどの男の子だった。母親に手を引かれ、こちらを見上げていた。
その黒い瞳だけが妙に澄んでいた。
私は胸の奥が熱くなり、勝手に名前を与えた。
「平成生まれのコージくん」と。
誰にも言っていない。声にも出していない。ただ心の中で、そう呼んだ。
すれ違いざまに「強く生きろよ」と祈った。それだけだ。
その瞬間、確かにあの子は私を見ていた。
それから十七年が過ぎた。
神戸のコンビニで、若い男がレジに立っていた。二十歳前後。茶色い髪。どこにでもいそうな顔。
会計を済ませ、背を向けたときだった。
「どーも。平成生まれのコージです」
はっきりと聞こえた。
その言い方は、初対面の挨拶ではなかった。
確認のようだった。
振り返れなかった。
ただ曖昧に「どーも」と返して店を出た。
外の湿った夜風の中で、私は思い出した。
あのとき、すれ違いざまに名付けた瞬間。
あの子は、私をじっと見ていた。
目が合ったのかどうか曖昧だったはずなのに、今ははっきり思い出せる。
あれは、見られていた目だった。
私はずっと「偶然」だと言い聞かせてきた。
聞き間違いだ、と。
だが、ひとつだけ説明がつかないことがある。
あの若者は、名乗ったあと、ほんの少し首を傾げた。
まるで「覚えていますよね」と確認するように。
平成は終わった。
だが、ときどき街で若い男とすれ違うと、無意識に思ってしまう。
この中の誰かに、私は名前を与えてしまっていないか。
もし心の中で勝手に呼んだことが、向こうに届いているとしたら。
もしかすると、あの日からずっと、私は見られていたのかもしれない。
あの夕暮れに。
あの澄んだ瞳に。
そして今も。
[出典:381 :本当にあった怖い名無し:2011/07/14(木) 22:02:57.50 ID:/ske0H7HO]