まだ小学校に上がる前、祖父母の家に預けられていた頃のことだ。
なぜ自分がそこにいたのか、両親はいまでも理由を言わない。聞き返したことはある。だが、そのときだけ言葉が途中で途切れ、妙な沈黙が挟まった。理由を知らないほうがいい類の沈黙だった。
祖父母の家は山の裾に貼りつくように建っていた。朝は白い靄が低く垂れ込み、夕方になると裏山から冷えた風が降りてくる。湿った木と土の匂いが、肌の内側にまで染み込むような場所だった。
幼い私は、祖父母以外の人をほとんど見なかった。庭に出ても、聞こえるのは風音と鶏の羽ばたき、遠くの沢のざわめきばかりで、人の声らしいものがない。その静けさの中に長くいると、自分の呼吸の輪郭が薄れ、周囲に溶けていくような感覚があった。
ある日、退屈に耐えきれず、敷地の端にある蔵へ向かった。
引き戸の下部は土で膨らみ、手で押してもほとんど動かない。肩で体重をかけると、湿った木の繊維がぬるりと動き、細い隙間ができた。中は薄暗く、天井の板がところどころ腐り、小さな穴から光が漏れていた。埃が光の筋の中で漂い、空気だけがゆっくり動いている。
その光が溜まる場所。蔵のいちばん奥。
そこに、小さなものがいた。
背丈は三十センチほど。背を丸め、乾いた小豆色の皮膚に細かなしわが寄っている。両手を胸の前で動かし、何かを撫で回すような仕草をしていた。顔の作りは曖昧で、目のような窪みが光に濡れている。
名前を教わった覚えはない。それでも、見た瞬間に「ヒノジイ」という音だけが、頭の奥に落ちてきた。文字でも声でもなく、輪郭だけが直接押しつけられるような感覚だった。
ヒノジイの足元には、小さな灯りが置かれていた。掌に乗るほどの壺のような形で、口の部分だけが淡く光っている。揺れない。熱もない。ただ、湿り気を帯びた光が、そこに在った。
私はその日から、毎日のように蔵へ通った。ヒノジイはほとんど動かず、時折、何もない空間からふっと現れる光の粒をつまみ、壺の中へ沈めていく。その作業を眺めていると、理由もなく肩の力が抜け、胸の奥が温かくなる。祖父母の家で感じていた寂しさや、不安の輪郭が薄れていった。
けれど、小学校へ上がる年に町へ戻ってから、その記憶はきれいに消えた。蔵のことも、ヒノジイのことも、思い出そうとしたことすらなかった。
それが、今年になって突然、戻ってきた。
年賀状の話をしている最中、ふいに湿った木の匂いと、光の筋の中で揺れる埃の像が胸に差し込んできた。思い出したというより、向こうから押し寄せてきた感覚だった。なぜ今まで忘れていたのか。そのこと自体が気味悪かった。
祖父母の家へ向かう日が近づくにつれ、胸の内側に湿った重さが溜まっていった。理由を説明しようとすると喉の奥がざらつき、言葉が形にならない。蔵の奥へ入る自分を想像すると、足首のあたりがじんと冷える。触れられていないのに、触れられたあとのような感触が残る。
祖父母の家に着くと、祖母はいつもより黙りがちで、私の顔をまじまじと見たあと、胸の前で指を組んだ。問いかけても返事は曖昧で、目の奥に濁った揺れがある。
翌朝、蔵へ向かった。
引き戸に触れた瞬間、手のひらが薄く痺れた。昔と同じように重く、同じように隙間ができ、光が線となって流れ込む。匂いを嗅いだ途端、胸の奥がゆっくり沈んだ。
蔵の奥に立ったとき、そこには何もいなかった。
乾いた床に、丸い跡がひとつ残っているだけだった。掌ほどの大きさで、中心が焦げ茶に変色している。擦っても取れず、縁に走る細い筋だけが、光るように見えた。
かがみ込んだ瞬間、頭の奥に淡い波紋が走った。音ではない。言葉でもない。だが、確かに反応が返ってきた。私は反射的に後ずさった。
埃が舞い上がり、その中でひとつだけ光る粒があった。粒はふらつきながら漂い、床の跡の中央へ吸い込まれるように消えた。跡の縁が微かに脈打ち、床板全体が呼吸しているように見えた。腕が勝手に伸びた。
そのとき、背後で気配がした。
蔵の入口に祖父が立っていた。何も言わず、ただ影として佇んでいる。だが、その視線は床ではなく、私の肩口あたりを凝視していた。そこに、何かがいるかのように。
「……もう、ええ」
祖父の声は震えていた。安堵とも諦めともつかない響きだった。視線が一瞬ずれ、私の背後へ動いた。その空間が、ゆっくり沈んだ気がした。
夕方、縁側に座っていると、裏山から小さな光がひとつ降りてきた。蛍ではない。色が冷たく、動きが遅い。胸元で止まり、輪郭が歪んだ。
頭の奥に、かすかな気配が触れた。
──「……つづける」
──「……あずけた」
意味を考える前に、胸の奥が締めつけられた。光は足元へ落ち、土に沈んだ。
背後から祖母の声がした。視線は私ではなく、私の肩の上を見ている。
「また、来よったんやね」
霧の中、三十センチほどの影が揺れた。輪郭は薄く、光に透けている。
──「かえす」
その瞬間、理解したわけではない。ただ、何かが確かに動いた。胸の奥に、淡い灯がともる。温かいが、安心とは違う。消えないと分かる種類のものだった。
影は薄れ、霧に溶けた。
夜風が吹く。胸の奥の灯が、かすかに揺れた。
それが何か、私は知らない。
ただ、もう一度蔵へ入る理由が、自分にはないことだけは分かっている。
そして時折、祖父母が何もない空間へ視線を向ける理由も。
[出典:756 :本当にあった怖い名無し:2008/11/29(土) 20:24:44 ID:ar/RLiWLO]