これは、コーチングをしている知人の田原さん(仮名)から聞いた話だ。
※コーチング…コーチ(聞き手)との問答による精神治療、セラピーみたいなもの。
田原さんのクライアントに、工藤というベンチャー企業の社長がいた。工藤には息子と娘がいて、家族は一見、幸福に満ちていた。しかし不況の煽りを受け、工藤の会社は倒産の危機に立たされ、事業を畳まざるを得なくなった。倒産手続きはおよそ一年にわたって続き、その間、肉体的にも精神的にも限界に追い込まれた末に、ようやく終わりを迎えたという。
今後の生活に対する不安は尽きなかったが、その時の彼の正直な気持ちは一つ――「とにかく、少しの間、何も考えずに休みたい」。すぐに働き口を見つけるのが望ましいとは分かっていたものの、心も体も疲れ果てていて、少しの休息を願わずにはいられなかった。
意を決して妻に「少し休みたい」と打ち明けると、妻は静かにうなずき、「少し休んで、それから今後のことを一緒に考えましょう」と言ってくれた。心から優しい言葉だと感じ、工藤はほんの少し安堵の息をついた。しかし、その翌日の出来事が、彼の心に暗い影を落とすこととなる。
田原のコーチングを受けて帰ろうとした工藤の携帯に、妻からのメールが届いた。何気なく立ち止まり、メールを開いてみると、そこには妻の心中が静かに、しかし痛烈に綴られていた。
今日、求人雑誌を買ってきました。あなたが職を失った今、私もパートを考えなければと思っています。これからは生活全般を見直さなければいけませんね。子供たちの学費だけでもなんとか払えるようにしなければ……。
あなたは昨日、ゆっくりしたいと言いましたね。これからの生活がどうなるかも分からないのに。貯金も徐々に崩していかなければならず、私たちがこの先どうなるか見えないというのに、あなたは休みたいと言いました。
私は……あなたを殺してやりたいと思っています。
その文を読み終えた時、工藤は凍りついた。「殺してやりたい」とまで書かれたその一文が頭の中で繰り返され、鼓動は激しく脈打ち、冷たい汗が背中を流れ落ちるのが分かったという。
恐怖に駆られ、工藤は急いで田原の元へ引き返した。震える手で携帯を差し出し、「このメールを読んでほしい」と訴えた。田原も一読しただけで、ぞっとする寒気を覚えたそうだ。数分間、工藤はうつろな目をしながら肩を震わせていたが、田原は彼の肩に手を置き、冷静を取り戻させようと深呼吸を促した。
やがて少し落ち着きを取り戻した工藤に、田原は静かに尋ねた。「どうして奥さんは『殺してやりたい』と書いたと思います?」
工藤は黙り込んだが、やがてぽつりと、「たぶん、不安なんだと思います」と口にした。田原も同じ考えだった。
突然、生活が一変し、家族の生活費を賄わなければならないというプレッシャーが、妻を追い詰めていたのだろう。将来が見えない中で、自分一人で家計を支えなければならない――そんな恐怖と焦燥が、ついに彼女の理性を突き崩し、痛烈な言葉で夫に訴えかける結果となったのだろう、と田原は推測した。
数日後、田原は工藤の妻もコーチングに同席させ、夫婦で一緒に心の内を話し合ってもらった。冷静な場で気持ちを吐露し合うことで、妻も少しずつ本来の落ち着きを取り戻していったという。実際、妻の言葉の裏に隠れていたのは、殺意ではなく、恐れと疲れ切った魂の叫びだったのだ。
田原は今でもこの出来事を教訓にしている。言葉は時に感情の裏返しとして、最も正直で強烈な形を取って表れることがある。それに気づかなければ、思い込みや誤解から深刻な事件に発展することもあるだろう、と彼は語っていた。