北海道の冬は、ただ冷たいだけじゃない。
肌を切る風が、骨の奥まで凍りつかせる。あの寒さを思い出すたび、肺がぎゅっと縮むような錯覚を覚える。
私は妹と二人、古びた集合住宅の二階で暮らしていた。壁紙は黄ばんで剥がれ、窓の隙間からは風がしみ込む。十一月の末、ガスが止まった。料金を払えなかったのだ。ストーブも給湯器も使えない。そこから先の冬が、どんなものだったか――想像できるだろうか。
妹は知的障害があり、一人で生活することができなかった。食事も着替えも、トイレさえも手を貸さなければならない。私は四六時中そばにいる必要があった。けれど私自身、原因の分からない頭痛に悩まされていた。頭の奥がじんじんと痛み、吐き気が込み上げ、視界が時折ぐらついた。病院へ行っても「異常は見られませんね」とだけ言われた。
働きたいと思っていた。妹を施設に預けられれば短時間の仕事くらいできる。そう思い、求人に応募し、面接を受けに出かけた。だが四十を過ぎた女を雇おうとするところは少なかった。面接官の顔はどこも冷たく、私の履歴書を開いてすぐ閉じる。頭痛をごまかして笑顔を作るのも限界に近づいていた。
役所に相談に行った。
窓口の男性職員は、にこやかな顔で私を迎えた。三度通った。生活が苦しい、妹をどうしても施設に入れたい、私自身も病気がちで働けない――必死に訴えた。けれど返ってくるのは、奇妙な言葉だった。
「職探しをしている間は生活保護は難しいんですよ」
「申請書を渡すには、それなりの手続きが必要でしてね」
「まずはご自身で頑張っていただきたい」
机の上に置かれたのは紙切れではなく、缶詰に入ったケーキだった。障害者団体が作った非常食だという。十日分の配給のように渡されたそれを抱えて帰る道すがら、雪が頬を打った。私は泣いていた。
三度目の相談の日、彼は言った。
「申請します、という言葉さえあれば、すぐに書類をお渡しできるのですが」
私は何度も「助けてください」と言った。「このままでは生きていけません」とも言った。「生活ができません」とも言った。けれど彼は首を振り続けた。呪文のような言葉――「申請します」を唱えなければ、門は開かれないのだ。
その夜、妹は私の腕にしがみついて震えていた。冷たい部屋で、私の心臓はおそろしく速く脈打っていた。頭の奥で鐘が鳴り響き、視界が真っ赤に染まった。
やがて、私は倒れた。
床に落ちる音と、妹の悲鳴が最後の記憶だった。
――そこで私は目を覚ました。
部屋は変わらない。薄暗い窓、冷たい空気。けれど妹は泣きながら電話を握りしめ、番号を押していた。画面には「111」。何度も、何度も。
助けを呼びたかったのだろう。けれど、正しい番号を知らなかった。誰も教えてくれなかったから。
私は立ち上がろうとしたが、体は動かなかった。自分の姿が、床に横たわっているのを見てしまったからだ。赤黒い染みをこめかみに滲ませた女――それは私自身だった。
時間は止まらず、部屋の寒さはますます強くなった。ガスも灯油もない部屋で、妹の体力はみるみる奪われていった。私はただ見守るしかなかった。彼女は私に寄り添い、やがて動かなくなった。
そこから先の記憶は曖昧だ。
気がつくと、私は役所の窓口に立っていた。あの職員が書類を整えている。インタビューを受けているようだった。カメラの前で、彼は落ち着いた声で言った。
「私たちはSOSを受け取ることはできるのです」
「ただ、申請の言葉をいただけなければ、手続きを進めることはできません」
「押し売りのように生活保護を勧めることはできないのです」
私は背後で笑った。声にならない笑いが、窓口の仕切りガラスにひびのように広がった。
「私は三度も来た」
「助けてほしいと何度も言った」
「それでもあなたは呪文を求め続けた」
彼の目がふと宙を泳ぎ、背筋を震わせた。私の声は届いていないはずなのに、確かに聞こえたのだろう。
夜、彼の夢の中に私は現れる。
冷たい廊下、凍えた妹の指先、携帯電話の「111」。
何度も何度もその光景を見せてやる。彼が「申請します」と唱えるまで。
だが彼の口からは、その言葉は出ない。夢の中でも、現実と同じ。
だから私は繰り返す。
「申請します、と言ってごらん」
「それさえ言えば、楽にしてあげる」
朝になるたび、彼の顔色は悪くなっていく。
インタビューで涼しい顔を見せながら、その瞳の奥には凍りつくような怯えが宿っている。
私はそこから抜け出せない。
妹の冷たい手を握りしめながら、あの言葉を待ち続ける。
「申請します」――その呪文を唱えるのは、果たして彼か、それとも私か。
どちらにせよ、もう遅い。
この町の冬は、またやってくる。
凍りつくような風とともに。
[出典:312 :本当にあった怖い名無し:2012/06/15(金) 08:03:36.89 ID:qy0KUDut0]