今でも、あの水のぬるさが忘れられない。
夏の終わり、駅近くの古びたビルの二階にあるレストランでのことだった。
平日の遅い時間だったせいか、店内には他に客の姿はなかった。
冷房は効いているはずなのに、空気がどこか重くて、入った瞬間から汗が引かなかった。
磨りガラス越しのネオンが天井を紫色に染めていて、テーブルの隅では蝿が一匹、何かを舐めていた。
「いらっしゃいませ」
ウェイトレスの声は小さかったが、耳の奥にじっとりと残る。
案内されたのは四人がけのテーブル。
私はいつも通り、壁側に座る。
すると彼女は、私の前と、向かいの席にメニューを置いていった。
一瞬、声をかけようとして、やめた。
たまたま手が滑ったのかもしれないし、深く考えるようなことじゃない……。
そう思っていたところへ、友人が現れた。
大学時代の同期で、今はここで夜勤のウェイターをしている。
「おい、珍しいな。こんな時間に」
ニヤつきながら、手にしたトレイから水と紙おしぼりを私の前に置き、
……そして、向かいの席にも、同じように置いた。
グラスの中の氷が、カチンと鳴った。
「ひとりだけど」
言葉に出すまでに少し間があった。
彼はトレイを胸に当てたまま、首をかしげて言った。
「……あれ? でもさっき、女の人と入ってこなかった? 白い……ワンピースの」
喉がひくりと鳴った。
私にはまったく覚えがなかったし、そもそも店に入るとき、誰ともすれ違っていない。
「気のせいじゃないか?」
かろうじてそう答えると、友人は一拍置いて、吹き出した。
「いや、冗談冗談。店ヒマだし、からかってやろうと思って。お前、顔が真っ青だったぞ」
テーブルに置かれたグラスの水を見つめながら、彼は笑った。
「メニューもね、さっき裏で見てた怪談に出てきてさ。誰もいないのに、対面に物を置くってやつ。再現してみたくなったんだよ。悪かったって」
私は笑い返し、首の裏をぬぐった。
気の抜けたような安堵と苛立ちが入り混じって、グラスの水がやけにぬるく感じた。
食後、友人がサービスでコーヒーを出してくれた。
「内緒にしてくれよ、こんなことしてるのバレたらクビだから」
それを受け取り、帰ろうとしたとき。
レジ前の小さな鏡に、私の姿が映った。
壁側の私と、鏡の中の私。
……どちらも、同じ方向を向いていた。
じゃあ、向かいに座っていたのは――。
[出典:525 :本当にあった怖い名無し:2007/07/09(月) 00:57:04 ID:v7RGDyjF0]