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中学生の頃に聞いた父の話が、どうしても頭から離れない。

父は六〇代をとうに過ぎた今も、あの出来事のことを語るときだけ、声の奥が妙に湿っていた。

北海道の田舎で生まれ育った父が、親元を離れたのは大学進学の時だけだった。憧れてやまなかった京都で下宿暮らしを始め、下宿先の主人──父が「オヤジさん」と呼んでいた男──は、初めて親以外で深く関わった大人だったらしい。
酒好きで、饒舌で、時折こちらが面食らうような下品な冗談も飛ばす人だったという。父は北国の湿った雪の匂いを残したまま、そこで世間の酸っぱさと甘さを一度に吸い込んだ。

京都での四年間は、父にとって間違いなく輝いていたらしい。けれど、卒業して北海道へ戻ると、父のだらしない性分が顔を出した。
「手紙を書こう」
「近況を知らせよう」
そう思ってはいたらしい。だが仕事や生活に追われ、やがて何年も経ってしまった。年を重ねるほどに、連絡を絶つことへの罪悪感が膨らみ、結局そのまま音信不通になった。

三〇年以上が過ぎたある日、父は五〇代半ばになっていた。当時、会社経営は火の車で、余計な出費をする余裕などなかったはずだ。それでも京都出張のたび、あの下宿の路地をふと歩きたくなる衝動に駆られたと言う。けれど、今さらどう訪ねればいいのかわからなかったらしい。

そんな出張の一泊目、午後の予定が突然空いた。
「行ってみるか」
そう思った瞬間、自分でも不思議なほど迷いが消えたという。

住所は記憶の中だけ。地図も持たず、足だけを頼りに歩き出すと、京都の空気は思ったほど変わっていなかった。石畳のきしむ音や、遠くから聞こえる鐘の音が、耳の奥で四十年前の匂いと重なった。

曲がり角をいくつか抜けた先、木造二階建ての下宿はそこにあった。表札の苗字もそのままだった。
胸の奥がきゅっと締まったが、勇気を振り絞ってインターホンを押した。

すぐに女性の声が応答した。怪しまれる覚悟で、道中考えていた説明を一気に吐き出した。
「三〇年ほど前に、こちらで下宿しておりました稲荷山と申します……」

声の向こうが一瞬沈黙した後、驚きに震える声が返ってきた。
「……稲荷山さん?」

扉が開いた。
そこに立っていたのは、すっかり年老いた奥さんだった。顔の皺の奥から、あの頃と変わらぬ目の光がこちらを見つめていた。
「よく……来てくれたねえ」
声がかすれていた。父は泣き笑いのような顔で、何度も何度も頭を下げた。

ひとしきり再会の喜びを味わった後、父は震える声で聞いた。
「あの……オヤジさんは……?」

奥さんは笑みを浮かべたまま、少し黙ってから言った。
「あの人、今朝方に亡くなったんですよ」

時間が止まったようだったらしい。
もっと早く来れば……という後悔が、鋭い杭のように胸を貫いた。

父は仏間に通され、白布の下で眠るオヤジさんに手を合わせた。線香の煙が天井へ揺らめき、どこかで猫の鳴く声が聞こえたという。
「来てくれたのか」
そんな声が確かに耳元で囁かれた、と父は言った。
もちろん、振り返っても誰もいなかった。

その後、父は奥さんと少し話をして、夕刻の新幹線で北海道へ戻った。予算も時間もギリギリだったため、通夜にも葬儀にも参列できなかったらしい。
「ただの偶然だよ」と父は言った。
けれど、三〇年以上も会わなかったのに、その死の朝にだけ訪ねたのは、偶然以外の何かだったのではないかと、私には思える。

……話はそれで終わりのはずだった。
だが数年後、父は自分の古い手帳を整理していて、一枚の封筒を見つけたらしい。差出人は、京都の徳大寺の住所。
消印は三〇年以上前──父が北海道へ戻って間もない頃の日付だった。
中には、丸い字でこう書かれていた。
「体を壊しました。会えるうちに、また来てください」

父はその封筒を、誰にも見せずに燃やしたそうだ。

[出典:2012/12/21(金) 21:14:22.76 ID:7hw3/1GB0]

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