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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

峠に残った靴音 nw+291-0108

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あの夜の湿気を帯びた空気を思い出すたび、いまでも背中の皮膚がじっとりと汗ばむ。

季節は夏の終わりだった。蝉の声にひぐらしの鳴き声が混じり、昼と夜の境目が曖昧になり始める頃だ。

家は山に囲まれた集落にあった。最寄りのコンビニまで歩けば三十分、自転車でも十五分ほどかかる。バスは一応通っていたが、本数は一日三本しかない。定期代も無視できず、私は毎日六キロの道を自転車で通学していた。

学校から家へ戻る道は二つあった。街中を大きく回り込む平坦な道と、山を越える急勾配の近道だ。普段は汗をかくのが嫌で、街中の道を選んでいた。だがその日は部活で遅くなり、少しでも早く帰りたい一心で、久しぶりに山道を選んだ。

分岐点の小さなコンビニでスポーツドリンクを一本買った。照明の下で缶の表面に浮いた結露を指で拭いながら、何気なく空を見上げた。雲が焼け、茜色の空が異様なほど静かに沈みかけていた。風はなく、音だけがやけに澄んでいた。

山道に入ると、舗装の剥げた坂道にひぐらしの声が染み込んでくる。車のライトも人影もない。聞こえるのは、自転車が軋む音と虫の声だけだった。世界から切り離されたような感覚に、背中がむず痒くなった。

汗が背中に張り付くのを不快に感じながら、無心でペダルを踏み続けていたそのときだった。

背後から、湿った音がした。

「も゛っ……も゛っ……」

声と呼ぶには曖昧で、呼吸とも違う。何かが喉の奥で擦れるような、粘ついた音だった。次の瞬間、肩の少し後ろ、ほぼ頭の真上から、重たいものがドスンと落ちてきた。

視界が揺れ、ハンドルがぶれた。自転車を漕ぐ姿勢のまま、上半身だけを地面に押し付けられるような重みがかかる。腰から背中にかけて、冷たい汗が一気に噴き出した。指が痺れ、ブレーキを握る力が分からなくなる。

振り向けなかった。何かが背中に乗っている。その感触だけが、はっきりと分かった。耳元で、さっきの音が繰り返される。「む゛っ……む゛っ……」。息でも声でもない、ただの音。

叫ぼうとしても声が出なかった。止まることもできなかった。止まった瞬間、引きずり落とされる気がした。ただひたすら、ペダルを踏み続けた。

どれほど登ったのか覚えていない。視界が開け、峠の中腹にある小さな平地に出たとき、ようやく自転車を止めることができた。ハンドルに額を押し付け、肩で息をしながら、恐る恐る顔を上げた。

崖際に、子どもが立っていた。

夕焼けを背にしたその姿は、輪郭だけが浮かんで見えた。フード付きの上着に、丈の短いスカート。年齢は分からない。ただ、小さい。山道にいるには不釣り合いなほど小さい。

言葉が出なかった。子どもは静かにこちらへ歩いてきた。足音は聞こえない。自転車を降りることもできず、私は固まったまま、その姿を見ていた。

子どもは私の前で立ち止まり、顔を上げた。目が合った気がした。次の瞬間、両手で私の太ももを軽く叩いた。

「パン、パン」

埃を払うような、妙に慣れた動きだった。その拍子に、背中の重みがふっと消えた。耳元の音も止んだ。代わりに、空気が一段軽くなった気がした。

子どもは何も言わなかった。ただ、笑ったように見えた。そのまま踵を返し、崖の方へ駆けていった。

反射的に自転車を降り、「危ない」と叫びながら崖下を覗き込んだ。だが、そこには何もなかった。草が揺れた形跡も、足跡もない。ただ、夕焼けに染まった空気だけが残っていた。

家に帰ると、私は祖母に話した。背中の重みのこと、山で見た子どものこと。祖母は黙って聞いていたが、途中で何度か、私の背中に視線を走らせていた。

話し終えると、祖母は仏壇の奥から葉のついた枝を取り出し、無言で私の頭から背中、腰までを払った。葉の先から、甘くも苦い匂いが立ち上った。

それ以上、祖母は何も言わなかった。

翌朝、背中にあったはずの痛みや疲労感は、きれいに消えていた。ただ、妙に軽すぎる感じが残っていた。

それから数日後、私は峠に小さな靴を置くようになった。理由は自分でも分からない。そうした方がいい気がした。それだけだった。子ども用のスニーカーを一足、草むらの端に揃えて置く。

次の日、その靴はなくなっていた。荒らされた形跡もない。ただ、そこだけが空白になっていた。

私はそれを何度か繰り返した。靴はいつも、翌日には消えていた。代わりに、峠を越えるとき、背後で小さな足音が聞こえることがあった。振り向いても、何も見えない。ただ、確かに音だけが残る。

背中に落ちてきたものが何だったのか、いまも分からない。あの子が何者だったのかも分からない。ただ一つ分かっているのは、あの夜を境に、私は山道を避けられなくなったということだ。

峠に差しかかるたび、無意識に背中を丸めてしまう。何かが、また乗ってくる余地を残しているような気がしてならない。風の中に混じる靴音が、私の歩幅とぴたりと重なることがある。

それが追い越す音なのか、後ろに並んだ音なのか、確かめることはできていない。

[出典:206 :本当にあった怖い名無し:2010/11/10(水) 19:01:54 ID:nOPO0RK70]

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