山に入って三日目、ようやく最初の目的地にたどり着いた。
古地図にだけ記され、国土地理院の地形図ではただの雑木林とされている場所だ。実際、道など存在しなかった。高巻きしながら枝を払い、沢を跨ぎ、獣道すら途切れる中を進む。方向感覚が曖昧になり、現在地を何度も確認し直したころ、視界がふいに開けた。
木々が、不自然なほど整った弧を描き、円を描くように空を囲っている。鳥の声はない。虫の羽音もない。聞こえるのは、自分の呼吸と、草を踏む音だけだった。それらが、湿った空気の中で鈍く反響している。
そこには、確かにあった。
朽ちかけた墓石が、五つ。いずれも低く、土に半ば呑まれている。風雨に晒され、銘はほとんど判別できない。ただ、一番手前の墓にだけ、花が供えられていた。百合だ。季節外れで、しかも造花ではない。茎を指で挟むと、ひんやりとした水気が指先に残った。
……ここまで来るのに、最寄りの町から徒歩で六時間以上かかる。踏み跡もない。私以外に、誰が、何のために、ここへ花を供えに来るというのか。
記録によれば、五百年前、この谷には奇妙な集団が住み着いていたらしい。出自は不明。突然現れ、信じられない速さで山を切り拓いた。棚田を築き、水路を引き、果樹を育てた。木工と織物に長け、何より歌と踊りが美しかったと、わずかな文献にある。
あまりに洗練された暮らしぶりに、当時の豪族すら一目置き、庇護を与えていたという。
村の名は、残っていない。地図にも記されなかった。ただ、周囲の山腹に残る段々畑の痕、祠の礎石、そしてこの墓地が、確かに人の営みがあったことを示している。
時代は応仁の乱の只中だった。各地で争いが絶えず、国は細かく裂けていたという。それでも、この谷だけは長らく手つかずだった。戦略的価値がなく、攻める理由がなかったからだ。
村人たちは、争いを遠い火事のように聞き流し、日々の収穫を喜び、歌い、踊った。
だが、新たな領主が赴任してから、状況が変わる。
彼は力による統治を是とし、領内の村々から兵を徴発した。この谷の村からも若い男たちが連れて行かれ、二週間の訓練を受けたのち、村へ戻された。
翌朝、村は空になっていた。
家屋は無傷で、道具も衣服もそのまま残されていた。かまどには灰があり、粥の鍋には、冷えたままの中身が残っていた。人だけが、いなかった。
領主は怒り、兵を差し向けた。逃げ隠れしていると考え、周囲数里を封鎖し、川も崖も洞穴も調べさせた。それでも、誰一人見つからなかった。
やがて捜索は打ち切られ、領主の関心は別の戦場へ移った。村は焼かれ、名も記録も消された。ただ、この墓地だけは、なぜか手を付けられなかった。
理由は分からない。ただ、不思議なことに、花だけは絶えなかったという。
私は、その墓石の前に立っている。

花は、数時間前に供えられたように新しい。茎の切り口も乾いていない。
この山塊を縦断し、隣県へ抜ける計画だった。三日で抜ける予定だった。だが、今は別の考えが頭を占めている。
この先に、何があるのか。
誰が、今も花を供えているのか。
五百年前、彼らが村へ戻ったとき、何を見たのか。
……そう考えていたとき、背後で草を踏む音がした。
反射的に振り向く。誰もいない。
いや、いた。
視界の端、墓石の影に、小さな動くものが見えた気がした。ひょいと、隠れるような動き。
「……誰だ」
声をかける。返事はない。
一歩、近づいた瞬間、空気が震えた。風ではない。背中を撫でるような、微かな振動。音楽に近い。
耳を澄ますと、歌声が聞こえた。遠くからでもなく、近くからでもなく、空気そのものが鳴っているようだった。
忘れてはいけない
忘れてはいけない
ここに在りし日
歌い踊りし者たちを
足が止まる。呼吸が浅くなる。
音は背後から聞こえているのに、振り向いても、そこには何もない。
ただ、花が揺れていた。誰かが触れた直後のように。
私は、手帳を閉じ、その場に膝をついた。そして、供えられた花に手を合わせた。意味は分からない。ただ、そうしなければならない気がした。
口の中で、ありがとう、とだけ呟いた。
なぜか、涙が止まらなかった。
そのとき、墓石が音もなく崩れた。倒れたのではない。形を保てなくなった土の塊が、静かに崩れ落ちたようだった。
私は、花を一輪だけ手に取り、山を下った。縦断の計画は、そこで終わった。
再びあの場所を訪れることはなかった。
だが今でも、夢に花が出てくる。
歌とともに。
[出典:30 :全裸隊 ◆CH99uyNUDE :2005/06/15(水) 23:51:36 ID:dsL5gb3h0]