友人のひろゆきと、駅前の古びた居酒屋で飲んでいた夜のことだ。
串焼きの煙が低い天井に溜まり、隣の卓の笑い声がやけに遠く聞こえていた。取り留めのない近況報告から、いつの間にか「一日だけ過去に戻れるなら、いつにするか」という話題になった。
酔いに任せた軽口のつもりだった。だが、ひろゆきは少しも笑わなかった。
「中二の最初」
即答だった。
「大学じゃなくて?」
そう訊くと、彼は氷の溶けかけたグラスを指先で回しながら言った。
「一日だけでいいなら、やり直したいことがある」
「何を」
間を置かずに返ってきた言葉は、低く乾いていた。
「復讐」
冗談には聞こえなかった。声に濁りがない。淡々としているのに、そこだけが妙に浮いていた。
そこから彼は、中一の頃の話を始めた。学年全体から無視されていたこと。廊下ですれ違うたびに肩をぶつけられたこと。机の中にゴミを詰め込まれていたこと。教師は見て見ぬふりをしていたこと。
十年以上前のはずなのに、日付も教室の匂いも、窓から差し込む午後の光の角度まで、今そこで見てきたかのように語った。
中二に上がり、首謀者とクラスが分かれた。やっと息がつけると思った矢先、担任に呼び出された。連れて行かれた小さな個室には、そいつが座っていた。
教師が言った。「言うことあるだろ」
するとそいつは突然泣き出した。大声で、喉を震わせて、「ごめんなさぁぁい」と繰り返した。
教師は耳打ちした。「あいつ、小学校のときいじめられてたらしい。反省してる。許してやれないか」
混乱したまま、ひろゆきは「もう気にしてない」と口にしたという。
その瞬間のことを、彼はやけに静かに語った。
「あの時な、自分の声が自分じゃなかった」
それ以上は説明しなかった。
「俺だって、小学校の六年間、ずっとやられてた。でも誰もいじめなかった。なのに、あいつは同じ理由で他人を壊して、泣いただけで終わりだ。おかしいだろ」
怒鳴りはしない。ただ事実を述べる口調だった。
「だから戻るなら、あの日だ。『本当に反省してるなら、これから一年間、誰とも喋るな』って言ってやる。俺はそうだったんだから」
そう言って笑ったが、目は笑っていなかった。
そのとき、妙な違和感を覚えた。彼は「戻るなら」と言った。仮定のはずなのに、言い切りに近い響きがあった。
話が終わると、ひろゆきは急に饒舌になり、仕事の愚痴や最近見た映画の話に切り替えた。さっきまでの声とは微妙に調子が違う。明るすぎる気がした。
店を出ると、夜風が冷たかった。街灯の下を並んで歩く。駅前の雑踏はまばらで、アスファルトに影が長く伸びていた。
ふと、違和感がもう一度胸をよぎった。
影が、三つあった。
私は立ち止まり、足元を見た。街灯は一本だけだ。私の影と、ひろゆきの影。だがその間に、もう一つ、細身の影が伸びている。肩の高さが、ひろゆきよりわずかに低い。
目を瞬いた瞬間、二つに戻っていた。
「どうした」
ひろゆきが振り返る。表情は普通だ。だが、さっき居酒屋で聞いた声と、いまの声が、同じ人物のものか一瞬分からなくなった。
「いや、なんでもない」
そう答えながら、胸の奥がざわついていた。
駅の改札で別れるとき、彼は軽く手を振った。その背後に、一瞬だけもう一人の輪郭が重なった気がした。だが、今度は影ではなく、ひろゆき自身の輪郭がわずかにずれているように見えた。
帰宅してからも、違和感は消えなかった。
翌朝、スマートフォンに通知が届いた。ひろゆきからのメッセージだった。
「昨日はありがとう。ああいう話、初めてちゃんとできた」
そこまでは普通だ。
続く一文で、指が止まった。
「中二のあの日、やっぱり俺は何も言えなかった」
やっぱり。
私は返信しようとして、やめた。昨夜、彼は「戻るなら言ってやる」と言ったはずだ。だが、もし本当に戻れたとしたら、あの教室で何かを言ったひろゆきと、言えなかったひろゆきは、どうやって両立するのか。
その日の夜、再び彼と会った。いつもと変わらない様子だった。だが、何気なく昔の話を振ると、彼は首をかしげた。
「個室? そんなのあったか?」
泣きながら謝った場面も、教師の耳打ちも、曖昧だと言う。
「俺、たしか何も言わなかったよな」
そう言って笑った。
私は言葉を失った。昨夜、あれほど具体的に語った内容を、彼は覚えていない。
別れ際、街灯の下で、今度は影を確かめなかった。確かめて、三つだったらどうするのか分からないからだ。
ただひとつだけ、はっきりしていることがある。
あの日、個室で「もう気にしてない」と言ったのは誰だったのか。
そして、いま私の前に立っているひろゆきは、そのどちらなのか。
分からないまま、私は今日も彼と飲みに行く約束をしている。
[出典:2015/07/18(土) 00:42:36.74 ID:4LT2bBiI0.net]