高校二年の夏、木曽の御嶽山に行った時の話。
一学期が終わり、来週から期末テストが始まる頃、同じクラスの山岳部の新谷から「テスト休みに御嶽に行かないか?」と誘われた。
普段、ほとんど話したこともない相手だし、お金もないので「無理」と断ったが、いろいろと説得され、御嶽には一度登ってみたいと思っていたので、結局、二つ返事でOKした。
新谷は、乗り物の中でずっと山の話や御嶽の魅力を話し続けていた。
だが、この男、どうして電車を選んだのか、田の原に着いた時にはすでに昼過ぎだった。それでも、三時間ほどで山頂に到達。
以前、乗鞍山を登ったときに御嶽を見て、ずっと「いい山だ」と思っていたが、期待通りの素晴らしい山だった。
そこからさらに1時間ほど歩いて、二ノ池の小屋に着いた。ここが今夜の宿泊地の予定だった。
……はずだった。
だが、新谷の伝え間違いで予約は翌日になっており、今日はなぜか超満員だった。
小屋の人は申し訳なさそうにしていたが、どうしようもない。
新谷は「アテがある」と言い、先に歩き出したので、俺も後ろについていった。
まもなく日が沈み、霧まで出始めた。これはまずい。
バイクでもそうだが、体が濡れて冷えると、体力を急激に消耗する。最悪の場合、命に関わる。
それにもう一つ、まずい点があった。
新谷が、どうも同じ場所をぐるぐる歩き回っているような気がしてきた。
俺は彼に声をかけた。
「今日はここら辺でテントを張ろうよ。お前の知ってる場所、もうすぐかもしれないけど、俺は素人だからさ」
新谷はすぐに承諾した。
もしかして、俺が言い出すのを待っていたのか?しかも、新谷はテントを持ってきていなかった。
小屋に泊まる予定だったからだろうが……。
俺が何も言わないせいか、新谷は一生懸命しゃべり続けた。
もう少しで避難小屋に到着できたかもしれないとか、この季節に霧に遭うのは珍しいとか。
適当に相槌を打ちながら、俺は別のことを考えていた。
俺は狭い場所が嫌いだ。まして、一人用のテントで男同士で寝るなんて、大嫌いだ。
他にも言いたいことはあったが、明日になれば言おうと思った。
昔、祖父から言われたことを思い出す。
「いいか、海も山も異界だ。人間の世界じゃない。そこでは怪しいことや不満を口にしてはいけない。一言が百言、二言が千言になって返ってくる。不審と不信は、人里に戻ってから言え。わかったな」
ふと、外が明るくなった気がして顔を出してみると、さっきまでの霧が嘘のように晴れていた。
雲一つない夜空に、満月が真冬のように強く輝き、星々が瞬いていた。
いいな……。
タバコを吸いたくなって外に出ると、ウエストバッグをいじっていると、かすかに法螺貝のような音が聞こえ、それが下から徐々に強くなってきた。
やばい、ここは行者道だったのか?
焦る俺の目に、白っぽいヒラヒラしたものが現れた。
蝶か?いや、飛び方が蝶と似ているけれど、蝶ではない。
「なんだ、あれ?」
後から出てきた新谷が、うきゃっと叫んで腰を抜かした。
それは無数の人魂だった。
きれいに言えば横向き涙型、ぶっちゃけると尻尾の短いオタマジャクシで、それらが尻尾をくねらせながら、時には素早く、時にはゆっくり飛んでいた。
かすかな法螺貝のような音は、この群れが発していた音だった。
これまでにも人魂を見たことはあったが、こんなに大量の人魂を見るのは初めてだった。
怖さや恐怖は感じなかった。
大部分は俺を避けていったが、何匹かは俺の体に当たって、ふわっと跳ね返った。
その感触は、風船が膨らんだ状態で何日も放置されたような感じだった。
人魂だから、きっとどこかのご先祖様だろうと思い、毎回「ごめんなさい、すみません」と謝りながら、その通り過ぎるのを待った。
やがて、最後の一つが通り過ぎ、静かな夜が戻ってきた。
俺はタバコを一本吸い、眠りについた。不思議な夜だった。
翌朝、俺が先に歩き出した。
昨夜テントを張った場所は、どうやら二ノ池からすぐのサイノ河原らしい。
新谷は昨夜からずいぶんと黙っていた。
黒沢口に下り、そこで新谷に言った。
「いい山だったな」
「うん」
新谷は頷いた。
「でも、もう二度とお前とは山に登らない。次は誰か他をあたれ」
それ以上、何も言いたくなくなり、泣き笑いのような奇妙な顔をした新谷を後にして、俺は一人町へ帰った。
出典:190: N.W 2005/06/21(火) 07:10:29 ID:ig+oVX600]