高校二年の夏、木曽の御嶽山に行った時の話だ。
一学期が終わり、来週から期末テストが始まる頃、同じクラスの山岳部の新谷から「テスト休みに御嶽に行かないか」と誘われた。
普段ほとんど話したこともない相手だし金もなかったので一度は断ったが、御嶽には一度登ってみたい気持ちもあり、結局同行することになった。
道中、新谷はずっと山の話をしていた。
だが電車移動を選んだせいで田の原に着いたのは昼過ぎだった。それでも三時間ほどで山頂に着き、さらに一時間ほど歩いて二ノ池の小屋へ向かった。今夜はそこに泊まる予定だった。
ところが予約は翌日になっており、その日は満員だった。
小屋の人に謝られ、新谷は「アテがある」と言って歩き出した。俺も後を追った。
日が沈み、霧が出始めた。体が冷え始め、嫌な予感がした。
それに、新谷が同じ場所を回っているようにも思えた。
「今日はここでテント張ろう」
そう言うと、新谷は即座に頷いた。まるで俺が言うのを待っていたようだった。しかも彼はテントを持ってきていなかった。
一人用のテントで男二人。気分は最悪だったが、何も言わなかった。
祖父の言葉を思い出したからだ。
海も山も異界だ。不満や疑念は口にするな。言葉は膨らんで返ってくる。
夜中、ふと外が明るくなった気がして顔を出すと、霧は消え、満月と星が異様なほどくっきり見えていた。
タバコを吸おうと外に出た瞬間、下からかすかな法螺貝のような音が聞こえ始めた。
白っぽいものが、闇の中を漂っていた。
蝶のようで蝶ではない。数が増え、流れになり、無数の人魂だと分かった。
新谷が後ろから出てきた。
彼は声を上げたが、その叫びは俺が見ているものに向けられたものではなかった。
人魂は俺の体を避けるように流れ、いくつかは触れてきた。生温い、空気の抜けた風船のような感触だった。
俺は「すみません」と小声で言い続けた。
やがて群れは通り過ぎ、音も消えた。
新谷は何も言わず、テントに戻った。
翌朝、下山を始めた。
昨夜テントを張った場所は二ノ池近くのサイノ河原だったらしい。
黒沢口に下りたところで、俺は言った。
「いい山だったな」
新谷は少し間を置いて頷いた。
「……うん。でも、あれは山じゃない」
それ以上、彼は何も言わなかった。
振り返ると、新谷は泣いているのか笑っているのか分からない顔をしていた。
俺はそのまま一人で町へ戻った。
今でも分からない。
あの夜、同じものを見ていたのか、それとも俺だけが山に入ってしまったのか。
出典:190: N.W 2005/06/21(火) 07:10:29 ID:ig+oVX600]