日本中を震撼させた横須賀線電車爆破事件。その犯人の戦慄の動機、生い立ち、心の闇…その真相に迫ります。
横須賀線電車爆破事件とは
よこすかせんでんしゃばくはじけん
1968年(昭和43年)。国鉄(現東日本旅客鉄道:JR東日本)横須賀線で発生し15名の死傷者を出した爆弾事件。
警察庁広域重要指定事件107号。
事件概要
1968年(昭和43年)6月16日午後3時ごろ、横須賀線上り列車・横須賀発東京行(113系)が大船駅手前に差し掛かったところで、前から6両目の網棚におかれていた荷物が突然爆発した。その爆発で男性1人(32歳)が死亡し、14名の重軽傷者を出す惨事となった。
当日は日曜日であり、行楽帰りの乗客が多かった。
なお、当時は1967年6月18日の山陽電鉄爆破事件などの列車に対する爆弾事件が続発しており、世間が騒然としていた。
当日は山陽電鉄爆破事件と同じく父の日でもあった。
警察庁広域重要指定事件としては、単一の事件で広域指定された唯一の事例である。
犯人
犯人は、山形県出身で当時25歳の男性。本名:若松善紀(わかまつよしき)
後に純多摩良樹(すみたまよしき)というペンネームで、歌人として活動している。
爆発物に使用された火薬は猟用散弾の発射薬として市販されていた無煙火薬と判明。起爆用の乾電池ホルダーが、主に受験勉強用に販売されていたクラウン社製のテープレコーダーのものであり、遺留品の検査マークから1000台以下しか出荷されていないことが判明。
さらに爆弾物に包まれていた新聞紙が毎日新聞東京多摩版であり、活字の印刷ズレから八王子市・立川市・日野市方面に配られるものと判明。また、爆発物には鯱最中の箱が使用されていた。
それらの証拠から、日野市に在住、猟銃免許によって散弾銃を所持しており、毎日新聞を購読していたインテリ大工の純多摩が被疑者として浮かび上がった。さらに事件前年に隣家の夫婦が新婚旅行の土産として買った鯱最中を純多摩へ渡していたことを突き止めた。
純多摩良樹と短歌
昭和46年11月。短歌結社・潮音に入社し、毎月発行される歌誌『潮音』にもしばしば掲載された。
「潮音短歌合評」コーナーにも取り上げられ、昭和49年1月号では新春二十首詠に入選している。
執行後の昭和51年2月号には、追悼文も掲載された。
処刑の朝、当時潮音代表を務めていた太田青丘宛に書かれた葉書には、
「私は毎日の信仰生活の中で生れる、一首一首を辞世としてまゐりました。それで敢へて辞世の歌は書きません」
と書かれており、歌に対する良樹の真剣さ、一首一首への思いの深さがわかる。
また、作家・加賀乙彦とも交流があった。
昭和49年春、彼の短歌を見た加賀が、手紙を出したのをきっかけに文通が始まり、獄中生活のこと、短歌のこと、信仰のことなど、頻繁なやりとりがあった。
加賀は幾度か面会にも訪れている。
加賀の小説『宣告』に登場する死刑囚・垣内登は、良樹がモデルである。
加賀は、良樹との関係を「その心の奥までをおたがいに照らし会った仲」と述べている。
実際に、良樹の歌稿を預かっていたのも加賀であり、加賀に対する信頼の大きさが知れる。
加賀が預かっていた歌稿に従い、歌集『死に至る罪』が平成7年12月に刊行された。
加賀が序文を、太田青丘があとがきを書いている。
罪と信仰
良樹がキリスト教に関心を抱き始めたのは、一審の死刑判決があった昭和44年3月ごろである。
獄中でプロテスタントの牧師の教誨を受けるようになった。
『死に至る罪』という題名も、聖書の言葉に由来する。
(了)