俺が新入社員として入社した会社で、三年間ずっと一緒に仕事をしていた先輩の話だ。
宣伝部に配属された俺は、取引先回りをその先輩と二人で担当していた。先輩は入社十年目のベテランで、頭が切れて、明るく、正義感が強い。社内での評判も抜群で、誰からも信頼されていた。欠点らしい欠点を見たことがなく、「こういう大人になりたい」と自然に思わせる人だった。
ある夜中、先輩から突然電話がかかってきた。
「今すぐ、うちに来てくれ」
それだけ言って、電話は切れた。
嫌な予感がして、すぐに先輩のアパートへ向かった。
部屋の明かりは点いているのに、インターフォンを鳴らしても反応がない。電話をかけ直すと、すぐにつながった。
「今、ドアの前にいます」と言った瞬間、鍵の音がして扉が開いた。
立っていた先輩は、別人のようだった。顔色は悪く、目が濁っている。体が小刻みに震えていた。
部屋はいつも通り整っていた。だが、先輩はテーブルの前に座り込んだまま、黙って一枚の茶封筒を差し出した。中には、達筆だが意味の通らない文章がびっしり書かれた手紙が入っていた。
読めない文字の羅列。
単語らしきものはあるのに、文として繋がらない。
「父からだ」
先輩はそう言った。
そして、その夜、初めて自分の生まれ育った場所の話をした。
G県の山奥にある集落。
中学生の時に、逃げるように出た場所。
二度と戻らないと決めた場所。
「一緒に、来てほしい」
その頼み方があまりに必死で、断れなかった。
数日後、車で五時間かけてその集落に着いた。
人の気配がない。家はあるのに、生活の匂いがしない。真昼なのに、畑にも田んぼにも誰もいなかった。
頬かむりをした老婆が一人、俺たちをじっと見ていた。
先輩が手紙を見せると、老婆は何か呟き、俺の方を見て首を振った。
先輩の実家だけが、異様に立派だった。
父親らしき男が現れた瞬間、先輩は地面に膝をつき、頭を下げた。
「戻りません。ここには居られません」
父親は何も言わず、先輩の腕を掴み、屋敷の中へ引きずり込んだ。
俺だけが外に残された。
しばらくして、無言の先輩に招き入れられ、屋敷に入った。
廊下沿いの部屋はすべて外から鍵がかかっていた。
扉には、手紙と同じような読めない文字が書かれている。
居間には、壁一面に額縁が並んでいた。
写真、肖像画、何世代分かわからない顔。
だが、不思議なことに、どれも似ていない。
父親と先輩の言い争いが始まった。
内容は断片的で、噛み合わない。
「お前がいなくなれば、数が足りなくなる」
「もう増やすな」
「土偶に戻せ」
意味はわからないのに、言葉だけが刺さる。
深夜、疲れ切って俺は眠ってしまった。
目が覚めたのは翌朝。
先輩は外で水を汲んでいた。
昨夜のことなどなかったかのように、いつもの笑顔だった。
「もう帰ってくれ」
理由を聞いても、はっきり答えない。
ただ、「忘れてくれ」と繰り返すだけだった。
屋敷を出て車へ向かう途中、人影が見えた。
子供のような背丈の者。
大人のような体格の者。
だが、どれも形が歪で、年齢が判別できなかった。
車に乗り込んだ瞬間、横に老婆が立っていた。
「話すんじゃないよ」
思わず「普通じゃない」と言ってしまった。
「よそ者は黙れ。土偶にするぞ」
車がぬかるみに嵌り、動かない。
振り返ると、屋敷の方に人影が増えていた。
必死で脱出し、警察に駆け込んだ。
だが、その集落は地図に存在しなかった。
先輩も、行方不明のままだ。
後日、宣伝部の名簿から、先輩の名前が消えていた。
最初からいなかったかのように。
あの居間の写真の中に、
先輩に似た顔は、一枚もなかった。
それが、今も一番わからない。
(了)
[出典:30 本当にあった怖い名無し 2012/05/31(木) 14:39:36.35 ID:0mjhv6GZ0]