この話を思い出すたび、体の奥に冷たいものが沈殿する。寒かったからではない。あの夜の空気が、いまだに抜けきらないだけだ。
これは、大学時代の知人Aから直接聞いた話である。酒の席でもなければ、盛って語る性格でもない。むしろ彼は、その話題になると視線を落とし、言葉を選び、途中で何度も口をつぐんだ。思い出したくないのだと、はっきり伝わってきた。
当時のAは金に困っていた。仕送りはほとんどなく、アルバイトも長続きしない。そんな折、自分で刷った家庭教師募集のビラに一本の電話がかかってきた。中年の女の声で、「息子がいるので、毎日来てほしい」と言う。報酬も悪くない。条件は即決だった。
指定された住所は、町外れだった。周囲には新しい住宅地が広がっているのに、その一角だけが取り残されたように古い。塀は苔むし、門扉は歪み、家全体が外から閉ざされている印象だった。人の生活音はなく、風の音だけが妙に響いていた。
チャイムを押すと、女が出てきた。髪は脂で束ねたように重く、目の周りが黒ずんでいる。笑っているのかどうか分からない歪んだ口元が、Aの第一印象だった。玄関に立つ間もなく、強引に中へ引き入れられたという。
案内された子供部屋には、机と椅子があり、そこに座っていたのは子供ではなかった。布で作られた人形だった。顔には三つの丸が縫い付けられているだけで、目鼻口の区別も曖昧だ。ただ、こちらを見ているような配置だった。
思わず「人形ですよね」と言いかけた瞬間、女の空気が変わった。声を荒げ、「この子はケンよ」と叱責する。その言い方は訂正ではなく、命令だった。Aは謝り、「ケン君」と呼び直した。女は満足そうに頷き、部屋の隅に立った。
授業は異様だった。問いかけても返事はない。ページをめくる音だけが響く。背後で女がじっと見ている気配が消えない。時間の感覚が狂い、早く終わらせたい一心で時計ばかり気にしていたという。
授業後、食事を勧められた。断る余地はなかった。鍋からよそわれたカレーは、生臭さと焦げた匂いが混じっていた。女は向かいに座り、Aが一口食べるたびに満足そうに頷く。「ケンも喜んでいる」と言うが、人形は机の上に置かれたままだった。
帰ろうとすると、「泊まっていきなさい」と言われた。拒否すると、声を荒げ、「ケンが寂しがる」と繰り返す。そのときAは、この家では自分の意思が通じないと悟ったという。

深夜、女の気配が消えた隙を見て、Aは玄関へ向かった。だが、ダイニングの暗がりに女はいた。正座し、こちらを見上げ、薄く笑っている。「帰るなんて言わないわよね」。その声は感情が抜け落ちていた。
逃げる理由は十分だったが、説明できる恐怖ではなかった。Aは階段を駆け上がり、二階の一室に飛び込んだ。灯りをつけた瞬間、息が止まった。
そこは人形で埋め尽くされていた。棚にも床にも、天井近くにも。布、陶器、木、素材はばらばらだが、すべてに目があった。縫い付けられたもの、ガラス玉、塗りつぶされた点。どれも微妙に向きが違うのに、視線だけが重なる感覚があった。
音はなかった。ただ、背後で何かが「いる」気配だけが膨らんでいく。振り返る前に、ここに長くいてはいけないと直感したという。理由は分からない。ただ、関われば戻れないと。
窓を開け、二階から飛び降りた。着地の痛みで意識が白くなり、それでも立ち上がり、振り返らずに走った。
翌日、左足の骨折が判明した。警察に相談しようとしたが、住所を告げても該当する家は見つからなかった。知人と共に現地へ行っても、更地があるだけだった。古い塀も門扉も、最初からなかったかのように。
それ以来、Aは家庭教師の仕事をしていない。「ケン君」という名前を聞くと、今でも反射的に謝ってしまうのだと言う。何に対してかは、自分でも分からないらしい。
話を聞き終えたあと、私は何気なくその名前を口にした。途端に、Aが顔を上げ、こちらを見た。怒りでも恐怖でもない、困惑した表情だった。
「……今、誰に呼びかけましたか」
その問いに、私は答えられなかった。
確かに名前を言ったはずなのに、対象が思い浮かばなかったからだ。
その沈黙が、今でも耳に残っている。
(了)