これは、ある女性から聞いた話だ。
彼女の父には、若い頃、どうしても忘れられない女がいたという。
父はその女にずいぶん入れあげていた。金も時間も惜しまず、ほとんど店を持たせるほどだったらしい。母はそれを知っていた。知っていながらしばらく黙っていたが、ある日、知人に紹介された占い師のところへ行った。
占い師は、母の話を最後まで聞かないうちに、こう言ったという。
「見えます。女の人がいます。でも、顔が見えませんね」
母は身を乗り出した。
「隠しているんですか」
「ええ。両手で、こう」
占い師は自分の顔の前に、そっと両手を重ねた。
「恥じているんでしょうか」
「さあ。ただ、見せたくないようです」
母はそれを聞いて、笑ったらしい。
父の愛人は美しい女ではなかった。人づてに聞いたところでは、顔立ちはひどく崩れていて、初対面の者はどうしても目をそらしてしまうような女だったという。母はその話を思い出し、「やっぱりね」と言った。
その数日後、母は友人を数人連れて女の店へ行った。
夜の店だった。
母たちは客として席に着き、父の名を出した。女は最初、何も言わなかった。ただ黙って立っていた。母はその態度が気に入らなかったのだろう。いきなりテーブルのグラスを払った。
そこから先は、母が何度も笑いながら語っていた。
グラスを割った。酒瓶を倒した。壁に飾ってあった絵を外して床に投げた。友人の一人は、カウンターの中に入って、棚のものまで落としたという。客は逃げ、店の女の子たちは泣き、父の愛人だけが、最後まで大声を出さなかった。
「顔を隠してたのよ」
母は決まってそこで笑った。
「両手でね。あんな顔、人に見せたくないものね」
彼女がその話を初めて聞いたのは、母がまだ生きていた頃だった。母は父の裏切りを語っているつもりだったのだろう。だが、娘である彼女には、どうにもその話が嫌だった。
女がどれほど醜かったのかより、母がそれを確かめに行ったことの方が、ずっと醜く思えた。
その後、母が先に死んだ。
通夜の晩、親戚が帰り、家が急に静かになったあと、彼女は父に聞いた。
「昔、お母さんが壊しに行った店の人って、どんな人だったの」
父はしばらく返事をしなかった。
仏間には線香の煙が細く残っていた。母の遺影は、年を取ってからの写真だった。口元をきつく結び、こちらを責めているようにも見えた。
父は母の遺影ではなく、畳の一点を見ていた。
「優しい人だったよ」
それだけ言って、父は黙った。
彼女が何も言わずにいると、父はぽつぽつと話し始めた。
その女は、父が疲れて店へ行くと、何も聞かずに温かいものを出してくれた。金の話をしたことはほとんどなかった。父が勝手に出したのだという。店を持たせたのも、頼まれたからではない。父がそうしたかったのだ。
「顔は、噂ほどじゃなかったの」
彼女がそう聞くと、父は少しだけ顔をしかめた。
「顔なんか、どうでもよかった」
その言い方が、かえって答えになっていた。
父はその夜、母の思い出をほとんど語らなかった。葬式の段取りも、親戚への礼も、翌日のことも、もう頭になかったように、ただその女のことを話し続けた。
母に店を壊された後、その女は消えた。
誰にも行き先を告げなかった。残された店はしばらく開いていたが、やがて閉まった。父は何度か探したが、会えなかったという。
「最後に見たとき、泣いていたの」
彼女が聞くと、父は首を振った。
「顔を隠してた」
その言葉で、仏間の空気が少し沈んだ気がした。
母が死んでから、家のことを少しずつ聞くようになった。
父の事業は、あの女が消えた頃から傾き始めたという。母は「あの女が疫病神だった」と言っていたが、父は一度もそうは言わなかった。何かを失った人のように黙り、家の中で笑わなくなった。
晩年の父は糖尿病を患い、足を失った。入院先で見舞うと、父は布団の上でやせ細り、夜になると誰かの名前を呼んだ。母の名ではなかった。看護師に聞かれるのを嫌がって、彼女は聞こえないふりをした。
父は亡くなる少し前、彼女に言った。
「見えるんだ」
「何が」
「女が」
彼女は、愛人のことだと思った。
「顔を隠してるの」
父は目だけをこちらに向けた。
「いや。こっちを見てる」
それきり父は、その話をしなかった。
父が死んだとき、彼女の頭にはなぜか、「これで終わった」という言葉が浮かんだ。悲しみより先に、それが来た。自分でもひどいと思ったが、どこかで本当にそう思っていた。
ところが、終わらなかった。
姉は離婚したあと、急に目を悪くした。病名はあった。医者の説明もあった。それでも、彼女には腑に落ちないことがあった。
姉は見えなくなってから、顔に手を当てる癖がついた。
最初はまぶしいからだと言っていた。やがて、話している途中でも両手で顔を覆うようになった。目を隠すのではない。顔全体を隠す。誰かに見られるのを避けるように。
下の妹たちも、婦人科の病を患った。どちらも子を持たなかった。母方の親戚の女たちにも、不幸な死に方をした者が多いと聞かされた。
彼女は、父が何かを連れてきたのだと思っていた。
だが、家系の話をたどるうちに、そうではない気がしてきた。
母の妹だけが、今も生きている。その人は若い頃から修行の道に入り、祖先の供養を続けていた。親戚の集まりにもあまり顔を出さず、出ても長くはいなかった。
彼女が思い切って訪ねると、叔母は最初、何も話したがらなかった。
仏壇の前には、古い位牌がいくつも並んでいた。部屋には香の匂いが染みついていて、窓を開けても抜けないようだった。
「お父さんの昔の女の人のことなんだけど」
彼女がそう切り出すと、叔母は目を閉じた。
「その人のことじゃないと思う」
「じゃあ、何」
叔母はすぐには答えなかった。
やがて、低い声で言った。
「うちの女はね、見てはいけないものを見て、笑ってきたんだと思う」
彼女には意味が分からなかった。
叔母は、母の実家には本来、背負わなければならないものがあると言った。祖父は軍人で、戦時中、名の知れた出来事に関わっていた。詳しいことは誰も話さない。話す前に黙る。黙ったあと、決まって誰かが「もう済んだことだ」と言う。
済んだこと。
その言い方が、彼女には一番嫌だった。
祖父の写真を見せてもらったことがある。若い頃の祖父は、美しい男だった。軍服がよく似合い、顎の線も目鼻立ちも整っていた。写真の裏には、母の字で「お父様」とだけ書かれていた。
ただ、その写真を見るたび、彼女は妙なことに気づいた。
祖父の横に、誰かが立っていたような余白がある。
切り取られているわけではない。最初からそこには何も写っていない。それなのに、空いた場所だけが妙に濃い。写真の紙が、そこだけ古く湿っているように見える。
叔母はその写真をしまいながら、言った。
「お母さんも、晩年は顔を隠していたでしょう」
彼女は反射的に否定しようとして、できなかった。
母は死ぬ前の数年、写真を嫌がるようになっていた。撮ろうとすると手を上げる。冗談めかして「もう婆さんだから」と言っていたが、たしかに、最後の方は両手で顔を覆っていた。
遺影に使った写真は、それより前のものだ。
彼女はしばらくして、伊勢へ行った。
何かが解決するとは思っていなかった。ただ、どこかへ行かなければならない気がした。誰かに謝りたいわけでも、許されたいわけでもなかった。祓ってもらいたいというより、自分の家が何をしてきたのか、知らないまま老いていくことに耐えられなかった。
祝詞の声を聞いているあいだ、彼女はずっと目を閉じていた。
途中で、両手が勝手に上がりかけた。
顔を隠そうとしているのだと気づき、彼女は膝の上で自分の手を強く握った。爪が皮膚に食い込んだ。痛みでかろうじて手を止めた。
その夜から、家の中で起きていた細かな音は消えた。
廊下を歩く足音も、誰もいない台所で食器が触れる音も、仏間から聞こえていた衣擦れのような音も、きれいに止まった。
周囲の人は、それをよいことのように言った。
けれど彼女は、そうは思えなかった。
外で鳴っていたものが、家の中へ入っただけではないか。あるいは、家の中で鳴っていたものが、自分の中へ移っただけではないか。
それ以来、彼女は鏡を長く見られなくなった。
鏡に何かが映るわけではない。顔が変わるわけでもない。ただ、じっと見ていると、自分の顔が自分のものではなくなっていく。鼻や口や目が、ばらばらの部品のように見えてくる。
そして、次に必ず思う。
隠した方がいい。
誰に見せるわけでもないのに、そう思う。
ある日、古い写真を整理していると、母の通夜の晩に撮られた写真が一枚出てきた。親戚が仏間に並び、母の遺影が中央に置かれている。父は遺影の横に座っていた。彼女自身も、少し離れたところに写っていた。
写真の中の彼女は、こちらを見ていなかった。
両手で顔を隠していた。
そのときのことを、彼女は覚えていない。
泣いていたのかもしれない。疲れていたのかもしれない。目をこすっていただけかもしれない。理由はいくらでもつけられる。
ただ、写真の中で顔を隠しているのは、彼女だけではなかった。
母の遺影のガラスに、もう一人、女が映っていた。
座敷の隅に立ち、両手で顔を覆っている。
顔は見えない。
だが、その手の隙間から、こちらを見ている気がした。
それが父の愛人なのか、母なのか、母方の誰かなのか、彼女には分からない。
分からないまま、その写真は今も彼女の家にある。
捨てようとしたことは何度もある。だが、捨てる前に必ず考えてしまう。
もしこれが、向こうが顔を隠している写真ではなく、こちらが見ていることを知られてしまった写真だったら。
そう思うと、どうしても手が止まる。
最近、彼女は人と話している途中で、相手の手を見るようになったという。
無意識に顔へ上がっていく手。
目元を押さえるしぐさ。
笑いながら口を隠す癖。
そのたびに、胸の奥が冷える。
あの占い師が最初に見た女は、本当に父の愛人だったのか。
母は、あの日、誰の顔を笑ったのか。
彼女はまだ、その答えを聞いていない。
ただひとつだけ、言えることがある。
この話をしているあいだ、彼女は一度も自分の顔に触れなかった。
両手を膝の上に置き、指が動かないように、ずっと握りしめていた。
(了)