地方新聞の支局で記者をしていた頃の話だ。
あの事務所は、昼でも湿った匂いが抜けなかった。紙とインクと、古びた机に染み込んだ何年分もの埃。静かな日は、時計の秒針がやけに大きく響いた。
奇妙な来訪者は珍しくなかった。自分が犯人だと名乗る者は、とくに多い。三億円事件の真犯人だという老人もいれば、すでに犯人が逮捕されている事件で「冤罪だ、自分がやった」と言い張る男もいた。たいていは話が破綻していて、相槌を打てば満足して帰っていく。
あの日も、同じ類だと思った。
昼下がり、引き戸が重く開き、男が入ってきた。痩せすぎた体に、色褪せたジャンパー。乾いた皮膚が顔に貼りつき、焦点の定まらない目が、事務所の隅々をなぞった。
私の前に立つと、男は言った。
「……人を殺した」
無意識にメモ帳を開いていた。問い返す前に、男は淡々と語り出した。風呂場で切断したこと。袋に分けて公園のゴミ箱に捨てたこと。声に起伏はなく、昨日の天気でも話すようだった。
だが、この県でそんな事件は起きていない。
「ここじゃない。東京だ」
なぜ、こんな田舎の支局に来る。そう問うと、男は一瞬だけ私をまっすぐ見た。
「都会じゃ監視の目がある」
監視の目。
私は鼻で笑いそうになった。妄想だ。そういう類の人間だと、心の中で結論づけた。
「なぜ殺した」
「死んでしかるべき人間だった」
「どういう意味だ」
「言えない」
「なぜバラバラに」
「わかる人にはわかる」
核心には触れない。やがて私は言った。
「警察には?」
男は口元を歪めた。
「警察なんか意味がない」
「じゃあ、なぜここに来た」
しばらく黙ったあと、男は小さく答えた。
「せめて誰かに、聞いてほしかった」
その瞬間、私はメモ帳を閉じた。記事にならない。時間の無駄だ。そう判断した。
男は席を立ち、「悪かったね」とだけ言って出ていった。引き戸が閉まると、空気が軽くなった。
一週間後、川で溺死体が見つかった。
取材で現場に向かった私は、ロープの内側に横たわる黒い塊を見た。色褪せたジャンパー。土埃をかぶったスニーカー。肩の落ち方。
顔は水に浸かり、膨らんでいたが、体格は一致していた。
所持品は空。身元不明。行方不明届とも照合されず、「誤って転落した事故死」と処理された。
私は何も言わなかった。
一週間前に支局を訪れ、「人を殺した」と告げた男と同じ格好をしていたことも。監視の目という言葉も。
言えば、私が最後に話した相手になる。取材対象から事情聴取の対象に変わる。それだけだ。そう自分に言い聞かせた。
だが、それだけではない。
あの男は、誰かに聞いてほしかったと言った。
私は聞いた。
警察ではなく、私に。
もし本当に殺していたのなら、最初に知ったのは私だ。記事にせず、通報もせず、ただ「おかしな来訪者」として処理した。
それが選別だったのかどうか、今でもわからない。
溺死の翌日、支局の電話が鳴った。受話器を取ると、無言だった。向こうで、かすかな水音がした気がした。すぐに切れた。
いたずらだと思った。
その晩、自宅の固定電話も鳴った。表示は非通知。出ると、やはり無言。息のような、擦れるような音が混じっていた。
監視の目。
都会にしかないと思っていたそれが、こちらを向いた感覚があった。
私はその後も記事を書き、異動し、今は別の部署にいる。あの溺死は、公式には事故だ。
だが、時折、知らない番号から着信がある。出ると、何も聞こえない。ただ、遠くで水が揺れるような音がする。
誰かが、確認している。
あの日、私は確かに聞いた。聞いてしまった。
この話をここまで書いた以上、もう私だけの問題ではない。
あの男は言った。
「わかる人にはわかる」
もし今、あなたの背後で、わずかな水音がしたなら。
それが何を意味するのか、私は説明しない。
[出典:134 :1/3:2009/08/04(火) 23:35:16 ID:X1AJxGlo0]