警察の記録では、私はあの山から戻っていないことになっている。
それを知ったのは、退院してしばらく経ってからだった。母が隠していた書類を見つけた。行方不明者届の写しだった。そこに書かれていた名前は、間違いなく私のものだった。
発見時の状況という欄には、こうあった。
「山中の県道脇にて、K氏を保護。同乗者二名は発見に至らず」
保護されたのは、私ではなかった。
けれど、私の記憶では違う。
あの日、青森の山道を運転していたのはKだった。助手席にN、私は後部座席にいた。大学の夏休みで、目的地も決めずに車を走らせていた。道の駅で買ったアイスは安っぽいバニラ味で、溶けかけた甘さが口の中に残っていた。
山道に入ったあたりから、車内の空気が変わった。
蝉の声が急に途切れた。ラジオには地元局の陽気な番組が流れていたはずなのに、いつの間にか砂を噛むようなノイズだけになっていた。Kは「山だから電波が悪いんだろ」と笑ったが、その笑い方が少し硬かった。
Kは地元の噂話に妙に詳しかった。地図に載らない集落があるとか、昔そこで何かがあったとか、そんな話を冗談めかして続けた。Nは嫌がって、「そういう話、今するなよ」と何度も言った。
それでもKはやめなかった。
「鳥居を見ても、くぐるなって話があるんだよ。くぐったやつだけ、帰ってきたことにならないんだって」
その時、前方の道が不意に広がった。

杉の幹が左右に割れ、そこだけ陽が落ちたように暗かった。道端に古い鳥居が立っていた。赤い塗料はほとんど剥げ、柱は雨に濡れた骨のような灰色をしていた。
鳥居の根元に、丸い石が二つ置かれていた。
車道は鳥居の正面には続いていなかった。舗装された道は鳥居の手前でゆるく曲がり、その脇に、車一台がやっと入れるほどの細い土道が口を開けていた。Kは冗談のつもりだったのか、ハンドルをそちらへ切った。
「行くなよ」
Nが低い声で言った。
Kは「少し見るだけだ」と言った。車は鳥居を正面からくぐったわけではない。けれど、鳥居の柱すれすれをかすめるようにして、土道へ入った。その瞬間、車体の下で何かが擦れる音がした。
Kがブレーキを踏んだ。
エンジンはかかっていた。けれど、アクセルを踏んでも車は前に進まなかった。タイヤが空回りする音だけが、湿った土の上で低くうなった。Kは舌打ちして、もう一度アクセルを踏んだ。車体がわずかに揺れたが、動かない。
「はまったか」
Kはそう言ってドアを開けた。キーは抜かなかった。エンジン音は細く残っていた。Nは「やめとけって」と言ったが、Kは聞かなかった。
「少し歩けば抜け道があるかもしれない。車を押すにも、先がどうなってるか見ないと無理だろ」
それで、私たちは車を降りた。
足元が柔らかかった。土というより、古い畳を踏んでいるような感触だった。靴底の下で、じわりと水が逃げる。昼間のはずなのに、杉の葉の奥で光が折れて、周囲だけが夕方の底に沈んでいるようだった。
少し進むと、家が一軒見えた。
廃屋だと思った。屋根は片側が沈み、外壁は黒ずんでいた。けれど、戸口の前だけ妙にきれいだった。落ち葉がない。土も乱れていない。誰かが毎朝そこだけ掃いているようだった。
Kが中をのぞいた。
「誰か住んでるのか」
返事はなかった。
私たちは入った。中は暗かったが、荒れてはいなかった。畳は湿っていた。柱には古い傷が何本もあり、奥の壁には額が掛かっていた。中の紙は変色していて、文字は読めなかった。ただ、黒い墨で名前が三つ並んでいるのは分かった。
Kが近づいて、埃を払った。
最初の名前はKだった。
二つ目はN。
三つ目は私の名前だった。
私は声を出せなかった。KもNも黙っていた。額の下には小さな皿があり、そこに干からびた米粒のようなものがいくつか乗っていた。
Nが私の腕を掴んだ。
「出よう」
その時、奥の部屋で足音がした。
一歩だけだった。
家の中にいるのは三人のはずだった。けれど、その足音は私たちの誰のものでもなかった。重さが違った。床板の軋み方が違った。
Kが「誰かいますか」と言った。
返事はなかった。代わりに、額の中の紙がかすかに揺れた。風はなかった。
Nが先に飛び出した。私も続いた。Kは最後に出てきたはずだった。確かに背後でKの足音を聞いた。
しかし、外に出たとき、そこには私とNしかいなかった。
「Kは?」
Nは私を見た。
その顔が、奇妙だった。怯えているのに、どこか私を責めているようだった。
「今、後ろにいただろ」
私はそう言った。
Nは首を横に振った。
「最初から、お前と二人だった」
その言葉を聞いた途端、頭の中で何かがずれた。
車に乗っていた三人の位置が思い出せなくなった。Kが運転していたはずなのに、ハンドルに置かれた自分の手の感触が一瞬よみがえった。助手席でNが鳥居を見ていたはずなのに、サイドミラー越しに後部座席のNを見た記憶もあった。
私たちは車へ戻ろうとした。
一本道だったはずなのに、来た道が見つからなかった。さっきまで土道は車の轍で湿っていたのに、どこを見ても落ち葉と笹ばかりだった。杉の幹はどれも同じで、どれも少しずつこちらへ傾いていた。
Nは私の袖を掴んでいた。
「車、どこだよ」
私がそう言うと、Nは口を開いた。だが、声が出る前に、林の奥からエンジン音が聞こえた。
私たちは音のほうへ走った。
濡れた土に足を取られ、何度も転びそうになった。やがて杉の間に黒い車が見えた。停めた場所と同じようにも見えたし、まったく別の場所にも見えた。鳥居はなかった。道もなかった。ただ、車だけが木の間に置かれていた。
私は運転席側へ回り込んだ。
ドアは開いていた。
Kが戻っているのかと思った。けれど、運転席は空だった。キーは最初と同じように刺さっていた。エンジンはかかっていなかった。さっき聞こえたはずの音も、もう消えていた。
Nは後ろで立ち止まっていた。
「乗るな」
そう言った。
だが、私は運転席に座っていた。自分でも理由が分からない。助手席でも後部座席でもなく、運転席に入るのが当然のように感じた。膝の位置も、ハンドルまでの距離も、妙に身体に合っていた。
キーに触れた瞬間、自分がここまで運転してきた感覚が掌だけに残った。
それは記憶ではなかった。もっと浅い、身体の癖のようなものだった。右手でキーをひねる角度。左足を置く位置。バックミラーを見る順番。そんなものだけが、私の中に先にあった。
「お前、何してるんだよ」
Nの声が遠く聞こえた。
私はキーを回した。
エンジンはかからなかった。
その時、フロントガラスの向こうに鳥居が見えた。
さっきの場所より近かった。いや、こちらへ向きを変えていた。鳥居の根元には、丸い石が三つ置かれていた。最初に見たときは二つだったはずだ。三つ目だけが、雨に濡れたように黒かった。
その下に人が立っていた。
Kだと思った。いや、Nだったかもしれない。背格好は友人のどちらにも似ていたが、顔だけが黒く潰れていた。こちらに手を振っていた。助けを求めているようにも、見送っているようにも見えた。
私はドアを開けようとした。
その瞬間、後部座席から声がした。
「まだ一人足りない」
Nの声だった。
私は振り返った。
後部座席には誰もいなかった。
そこで意識が途切れた。
目を覚ましたとき、私は病院にいた。
母が泣いていた。医者が何かを言っていた。警察官も来た。何度も同じ質問をされた。誰と山に入ったのか。どこで別れたのか。車は誰のものか。運転していたのは誰か。
私は答えた。
Kが運転していた。Nは助手席にいた。私は後部座席にいた。
警察官はメモを取りながら、何度か顔を上げた。
「あなたはKさんではないんですね」
そう言われた。
私は笑いそうになった。馬鹿なことを聞くと思った。だが、母は泣きながら首を振っていた。医者も看護師も、警察官も、誰も私の顔を正面から見ようとしなかった。
数日後、病室の机に置かれていた書類を見た。
そこには、保護された人物としてKの名前が書かれていた。年齢、住所、大学名、すべてKのものだった。だが、病室にいたのは私だった。私の身体で、私の声で、私の記憶を持っていた。
それなのに、母は私を見て泣いていた。
「あなたは帰ってきたのに、帰ってきていないの」
意味が分からなかった。
退院してから、私は自宅に戻った。私の部屋はそのままだった。机も本棚も服もあった。けれど、学生証だけがなかった。免許証もなかった。スマートフォンのロックは指紋で開いたが、連絡先に私の名前は登録されていなかった。
自分の番号に電話をかけてみた。
発信音が二回鳴ったあと、誰かが出た。
何も言わなかった。
ただ、受話口の向こうで、山の中と同じノイズが鳴っていた。遠くで、Kが笑う声が聞こえた気がした。続いてNが、「戻れないんじゃない」と言った。
その先は聞き取れなかった。
私は今も、この文章を書いている。
正確には、書かされているのかもしれない。
何度保存しても、ファイル名が変わる。最初は私の名前だった。次にKの名前になった。昨日はNの名前だった。今朝開いたときには、何も書かれていなかった。ただ、空白の文書の一行目に、こう入力されていた。
「次は、読んだ人が覚えていてください」
だから書いている。
あの山に何があったのか、私たちは誰が帰ってきて、誰が置いていかれたのか。私にはもう判断できない。鏡を見ると、顔は私のものに見える。声も私のものだ。けれど、名前を書こうとすると、指が止まる。
最近は、夢の中でよく車に乗っている。
運転席には私がいる。助手席にはKがいる。後部座席にはNがいる。三人とも黙っている。道の先には、古い鳥居が立っている。その鳥居の下に、丸い石が三つ並んでいる。
夢の中の私は、ブレーキを踏まない。
(了)