私が新しい部屋に越して三日目の夜のことだった。
その日は珍しく仕事がうまくいって、取引先と深夜まで繁華街で飲んでいた。駅から徒歩二分という便利な立地のマンションを借りたばかりで、終電ぎりぎりまで遊んでも安心だという気持ちが、私をいつもより羽目を外させていた。
快速で二駅、ほんの十分ほどで最寄り駅に着いた。駅前のロータリーを横切り、少し酔いの残る身体でコンビニへ寄り、ビールとスナック菓子を抱えてマンションへ。
玄関は大理石張りで、今となっては古さが目立つものの、当時のバブルの名残を色濃く残していた。その大理石のベンチに、子連れの女性が座っていた。三十五、六歳くらいか。着飾った服は、まるで必死に取り繕ったような痛々しさがあった。両隣には幼稚園児くらいの子供が二人。
夜中の二時に、子供連れでこんな場所に……。酔いで緩んでいた頭に、不気味さがじわりと差し込んだが、私は無視してエレベーターへと足を向けた。
部屋に入って、酒盛りの続きを始めたのは午前二時過ぎだった。テレビをぼんやり眺めながらグラスを傾けていると、不意に玄関のチャイムが鳴った。
「ピンポーン」
心臓が跳ねた。この時間に誰が来るのだ。電話もなしに。
もう一度「ピンポーン」。仕方なくインターホンを取ると、受話器の向こうは無言。ぞわりと鳥肌が立った。
二度目に出た時、小さな声がした。
「……えして……」
耳を疑った。もう一度問い返すと、今度ははっきりと――
「主人を返して!」
酔いが一瞬で覚めた。私は結婚もしていなければ恋人もいない。何を言っているのか理解できずにいると、ドアが激しく叩かれた。慌ててドアを開けると、そこにはさっきの子連れの女が立っていた。
彼女は土足で部屋に上がり込み、押し入れからベランダまで、すべての扉を開け放った。私は必死に「間違いです」と伝えたが、女は泣き崩れ、ついには土下座して「主人を返して」と繰り返した。
子供たちは騒ぎの最中でも眠ったまま。私は混乱と恐怖の中で、やけになって言った。
「そんなに大事なら、首に縄でもつけておけばいいでしょ!」
女は涙に濡れた顔を上げ、笑みを浮かべて言った。
「あなたは若いし、綺麗。男なんていくらでも寄ってくるでしょう?だから……さっさと返して」
そのとき、彼女は二人の子供を抱きかかえ、ベランダへ向かった。私はただ呆然と見ていた。
そして――一人、また一人と、子供を手すりから放り投げた。
ドサッという音が耳に残り、私は必死に救急車を呼ぼうとしたが、もう一人の子供も投げ落とされ、女は私を見て笑った。
「これで、あなたの罪は一生消えない」
そう言い残し、自らも飛び降りた。
八階のベランダから確かに飛び降りたのに、下を探しても死体はどこにもなかった。血も、影も、何一つ残っていなかった。
翌朝、管理人に詰め寄ったが、何も答えてはくれなかった。お隣の奥さんが「あなた、お一人で住まわれるのですか?」と笑った顔だけが頭にこびりついていた。
それから一ヶ月後。
午前四時、残業を終え、寝室にパジャマを取りに行った瞬間、雷光と共に停電した。懐中電灯で廊下を照らすと、一瞬の光の中に「人影」を見た。
盗人かと思い、寝室に飛び込み鍵を掛けた。電話は繋がらず、携帯は圏外。ドアの隙間から覗いたとき――目が合った。あの、深い黒い瞳。女の瞳。
私は震えながらも怒りが勝ち、幽霊相手に怒鳴り散らした。すると影はすっと消えた。しかしその日を境に、《それ》は毎晩現れるようになった。浴槽の湯から覗き込む女の目。枕元に立ち、じっと見下ろす女の目。
同時に、管理会社から毎日のように「深夜に騒音がする」との苦情が届いた。私は実家に泊まった夜にも苦情が入った。あり得ない。
階下の七〇三号室、中嶋という女性宅からの苦情だと知り、私は直接菓子折りを持って訪ねた。だが、チャイムを押しても応答はなく、一ヶ月前に投函した手紙すらそのまま残っていた。
管理人と管理会社の担当者と共に七〇三号室のドアを開けると、中で中嶋は首を吊っていた。死後一ヶ月は経っていたという。
中嶋には夫がおり、別の女に子供を作らせ、家を出ていたらしい。彼女自身は子を持てず、孤独の中で命を絶ったのだと。
その日を境に、《それ》は私の前に現れなくなった。
……だが、いまも夜、風の音に紛れてチャイムの音が耳に響く気がする。
「ピンポーン」
そして、低い声が囁くのだ。
「……主人を、返して……」
(了)